なにもしない神

思った以上に反応が…(びくびく)。なんで急にこんな話をはじめちゃったかというと、ニセ科学の話はもちろんあるんですが、その後書店でたまたま見かけたドーキンスの本を思わず買ってしまったということもあります。今ゆっくり読んでるんですが、面白いです。テリー・イーグルトンにはボロクソ言われてるようですが(この書評もまだ途中までしか読んでませんけど)。
The God Delusion


僕は神学論争がしたいわけでもないし(そんな能力はないです)、特定の宗教の信者を非難したいわけでもなく(好きなものを信じればいい)、よくわからないので考えてみてるわけです。まぁ、あるいはちょっと冒涜的に見えるかもしれませんが、自分としてはそういうつもりです。なのでともかく、どのあたりが自分にとって「わからない」のか、もうちょっと考えてみます。
「科学と共存できる宗教」が、科学者達がわざわざ問題視しないとか、科学に反する主張によって社会に悪影響を及ぼしたりしない、という意味であれば(何を「悪影響」とするかはさておき)、これは簡単な話で、わかります。一方「共存」を、ある個人が「同時に受けいれられる」という意味で捉えるならば、「宗教の教える神や霊魂はフィクションである」と考える以外にどのような「共存」の形があるんだろうかと。

最もイージーな道は、

  • 矛盾してようがしてまいが気にしない

でしょう。個人的には、これが一番共感できます。次にありそうなのは、

  • 同時に信じるのは(かなり確実に)不合理かもしれないと知りつつ、それでも信じる

なるほど、これも理解できます。確かに人間はそういうことができる生き物ですよね。というわけで、よくわからないのは、

  • 両者の間に矛盾など存在せず、同時に信じるのは全く不合理でない

という考えです。「科学と宗教は異なる領域にあって、神や霊魂の実在は科学の対象ではない」というのがよくある説明です。この説明がわからない。妙に難しい話になりがちだし。


こうした説明では、よく「神の実在は実証不能だから」と言われるようです。ということはつまり、「神の実在が科学と矛盾しないのは、それが実証不能である限りにおいてのみである」と解釈してよさそうです。では、実証不能な神とは、具体的にはどんな神でしょうか。
「水伝」の例えから展開してみると、「水は言葉を理解し、それは結晶の形の違いとして観察できる」という主張は検証が可能で、科学の対象になると。しかしこれが「水は実は言葉を理解しているが、それを観察することはできない」という主張であれば、科学の対象にならない。こういうことですよね?
ということは、科学の対象にならない神とは、観察できるようなことは何も起こさないということになるのではないでしょうか。これまでもこれからも、奇跡を起こしたりはしないし、祈りを聞いたりもしない(または聞いても何もしない)し、少なくともこの世には全然介入しない、ということになりません?つまり「なにもしない神」ではありませんか?もうちょっと譲歩するなら、思いすごしや錯覚と区別ができない程度にしか(またはそういう形でしか)介入しない、と言ってもいいかもしれません。

一体、信者が実際に信じているのはそのような神なのでしょうか。そうなんでしょうか。もしそうであれば、少なくともそれぞれの宗教で語られている奇跡の数々は、基本的に捨てられねばならないはずです。再現しない一回限りの奇跡は科学の対象ではない、と考えるのかもしれません。しかし「処女から生まれた」とか「腋の下から生まれた」とかいう話は「科学的とも科学的でないとも言えない」ようなものなんでしょうか。今からそれを検証することはできないけど、ほぼ確実になかっただろう、と考えるのは科学とは無関係な態度でしょうか?あるいは、一回であっても現実に起きたのであれば、奇跡の種類によっては歴史学の対象にはなるんじゃないでしょうか。


さて、そんなふうな「(この世では)なにもしない神」であれば、確かにその実在を完全に否定することはできないでしょう。その意味では、僕だって不可知論者と言えなくはないです。けれども、その意味での「実在するかもしれない」は、「空飛ぶスパゲッティ・モンスターは実在するかもしれない」と同じ程度の「かもしれない」だと言わねばならないはずだと思うんですが、こうなるともはや何でもありですよね。あらゆる「観察できないもの」は全て「実在するかもしれない」。特定の神の実在を信じてる人も、それで OK なのかな。
さらに、この「なにもしない神」について、いろいろな性質を想定してしまうのは不合理ではないのでしょうか。つまり観察できもしないのに、全知全能であるとか、究極の善だとか、祈りを聞いてくれるとか罪を裁くとか「仮定」することは不合理ではないのでしょうか(念の為繰り返すと、不合理と知りつつ信じる、とか、気にしない、とかいうのであれば理解できます)。「信じてれば救ってくれる」というのだって、人間の勝手な思い込みかもしれない。なにしろ観察できないんだから、どんな奴かわからないでしょう?だからパスカルの賭けは前提がアヤシイと思います。


あれ?なんか結果的に神学論争の罠にかかっているような…。ともかく、この方向(矛盾しないよ派)はかなり面倒くさいことになりそうです。やっぱりこれに限っては全然「難しくない」ことじゃないと思う。それで、えーとたぶん、こういうことは神学とか哲学とかの人がいろいろ考えてるでしょうから、機会があれば調べてみたいと思わなくもないです。自分の「わからないところ」もだいぶハッキリしてきた気がしますし。