「こうのとりのゆりかご」設置は難しい問題…なの?


僕にはそうは思えないです。むしろ全国に設置すればいいのに。

安倍晋三首相は「私はポストという名前に大変抵抗を感じる。子どもを産むからには、親として責任を持って産むことが大切」と発言。別の形態のものを考えるのか、との質問には「既にそういうお子さんたちに対応する施設もある。匿名で子どもを置いていけるものをつくるのがいいのか、私は大変抵抗を感じます」と消極姿勢を見せた。

 高市早苗少子化担当相も子どもを捨てる風潮を助長する懸念を表明。塩崎恭久官房長官は「美しい国づくりを目指す安倍内閣としても、一般の日本人からしても、親が子どもを捨てる問題について法律以前の問題と考えなければいけない」と不快感をあらわにした。

「ポストという名前」ではないし、児童福祉施設とは目的が違うし、子どもの命を助けない国は美しくないし、一般の日本人て誰だよ?あと「法律以前」とか言って思考停止をごまかすな。

捨て子を助長するか

同じ記事の中で大阪大の阪本恭子が、ドイツの例では「赤ちゃんの遺棄も殺害件数も増えていない」と指摘しています。

「子どもを望まない」という人の場合、新生児を捨てるという選択肢はかなり特殊と考えていいでしょう。普通は中絶を選ぶと思われるからです。「簡単に捨てる」ような人は、それよりずっと前に中絶してるだろうと考えるのが妥当だと思います。

では、産むまではよかったが、その後子どもが嫌になり、子育てが嫌になって捨てるということはあるでしょうか。あるかもしれませんが、それならば、その親の元でそのまま虐待されるよりは病院のほうが安全でしょう。

親の無責任さだけが捨て子の原因とは思われませんが、中絶を選ぶこともできず、産んでもやはり育てる気持ちになれず、周囲の誰かに育ててもらうこともできず…かなり特殊なケースで、しかもおそらくは追い詰められてる状況でしょう。それが急に増えるでしょうか。

僕には、捨て子が増えると考えるべき客観的な根拠はほとんど無いように見えます。

仮に捨て子が増えても

仮に今、年に10人の子どもが捨てられて命を失っているとします。「ゆりかご」設置でこのうち3人が病院で保護されたとしましょう。同時に、「ゆりかご」設置のせいでさらに10人の捨て子が増えたとしましょう。この捨て子は「ゆりかご」設置が原因ですから、つまりは「ゆりかご」に捨てられるわけで、命は助かります。

というわけで設置の前後では、助かる子どもが3人増えることになります。捨て子が増えようが増えまいが、助かる子どもの数は増えるわけです。


「それでも設置されなければ捨て子にならなかった子どもが捨て子になったではないか」と言われそうですが、捨て子ではあっても安全に生きられることと、「ゆりかご」設置が原因で捨てるような親の元(無責任さだけでなく、様々な困窮もあるでしょう)で育てられることとの間にある差には、「ゆりかご」で助かる子どもの命を犠牲にするだけの価値があるのでしょうか。僕には、そのようには思われません。

まぁもちろん、実際には絶対数が少なすぎて、こういう功利主義的な比較にはそれほど意味はないのかもしれませんが。しかし、もし仮に捨て子が増えたとしても、助かる命が増えるなら、そちらを選ぶのは充分まともだと思います。


少なくとも、「親が責任を持って育てるべき」などという建前を守るために、助けることができるかもしれない罪のない赤子を見殺しにするよりは、ずっと人間的な選択ではないでしょうか。また、これによって親もまた苦境から救われる可能性が大いにあります。その意味で、まさに「母と子の苦境」を救う手段として、あってしかるべきだと考えます。

設置そのものより難しい問題

「抵抗がある」とか言ってないで、ちゃんと考えなきゃいけないことは結構あるんじゃないかと。


一つ僕がちょっと心配になったのは親の問題。「ゆりかご」の利用が罪にされてしまわないかどうか。

ただ、現在では、どういう説であっても、被遺棄者に対して何らかの危険の存在が必要であるとされています。そのため、「いずれの見解からも、保護が確実に見込まれる場合には犯罪の成立が否定」(山口厚著「刑法各論」31頁)されると理解されているのです。

どうやら大丈夫そうです。あとは匿名性がきちんと守られ、苦しい選択をせざるをえなかった親が、その上さらに社会的な非難を浴びてしまうような事態を防げればいいと思います。


もう一つは、当然ですが、子のその後の福祉です。

里親が見つかればいいですが、そうでなければ児童福祉施設ということになるでしょう。「児童養護施設入所児童等調査結果の概要」やこれを元にしたこちらの表などを見ると、里親のところにいる子どもが2,400人くらいなのに対して、施設にいる子どもは約3万人です。里親が施設より良いと一般的に言えるのかどうか、ちょっと僕にはよくわからない面もありますが、このあたりの仕組みの充実はやはり必要でしょうね。


それから、ふたつとない日常: 赤ちゃんポストを利用するのは誰なのか経由で読んだ、前出の阪本の
ひとは如何にして子どもを「捨てる」か ―ドイツにおける「捨て子ボックス」の現状報告―
などを読んでも、「捨てられた子どもの権利」というのはなかなかに難しい。

「出自を知る権利」を失うという大きな問題があるんですよね…。これは、捨て子に限らないんですが。第三者精子卵子を提供されて産まれた子どももまた、自分の(遺伝的な)親は誰かを知ることができない。子のアイデンティティにとって、これは重要なことだと思うのですが、匿名性を確保しなければ、そもそも「ゆりかご」は使われないでしょうし…。

阪本論文には、こんな提案がありました。

母親にも,匿名性の権利を得るからには,果たしてもらいたい義務がある.


ひとつは,子どもを捨てざるをえない状況の説明.これをボックス運営者は,子どもの要求に応じて告知する.母と子が「苦境」を分かちあったことの確認である.その確認が,母や自分の生い立ちへの怨恨ではなく,母との共感として,子どもが生き続ける力の源になればと思う.


もうひとつは,自分の名前を伝えられないならば,せめて自分の「後継者」(inheritor)である子どもに名前を与えること.「命名」である.名前を通じて子どもは,「名前をもつ権利」(第七条)と,親が名づけた子どもであるという「存在」証明を得ることができる.名前にこめられた「意味」によって,親との「個別的関係」(personal relation)(第九条)を感じながら生きることもできる.


けれども捨てられた子どもには,一定の年齢に達したとき,「改名」の自由を与えるべきだろう.

これには、なるほどな、と思いました。


いずれにせよ「美しい国」とかいう中身のないキャッチフレーズや、自分好みの「親のモラル」や、何となく建前を大事にすることなんかより、子どもの福祉を徹底的に考えること、それが一番重要なことだと思うし、その意味で慈恵病院の「まず命を助けること」という考え方は、圧倒的に正しいと思います。