葬式仏教でもいいじゃない


読書メモ。

仏教と日本人 (ちくま新書)

仏教と日本人 (ちくま新書)

こうなると、生前に「覚者」となることを目標とする仏教が、どうして死後の「成仏」を目指す仏教に変化したのか、その変化の道筋をたどる必要があるのではないか。そうでないと、仏教は、いつまでも、「原始仏教」や、インテリたちに愛好される道元親鸞の思想仏教に限られてしまい、多くの日本人に親しい「葬式仏教」は仏教ではないという、いわれのない差別を受け容れて終わりとなり、日本人の創造力の貧困をかこつことになりかねない。
―まえがきより


僕は信仰を持たない人間で、神も仏も信じてませんが、日本の仏教文化が生みだしてきた豊かな物質文化、寺院建築や絵画や彫刻には関心を持っています。信仰のある人が見る見方とは違うのでしょうけれど、こういうものは信仰がなくてもちゃんと味わえるもんです。キリスト教のことをほとんど知らなくても西洋絵画を楽しめるように。


で、そういう興味があるので多少は仏教のことも齧っておきたいと思うわけですが、こういう動機なので「原始仏教」とか、よく言われるような「本来の仏教」にはほとんど関心がありません。いや、多少はあるかな。でもそれが正しくて、初期の教えと矛盾するものは仏教ではないとか、そういう意見には全然興味がないです。そういう人達は日本の仏教をすぐ「葬式仏教」などと言って馬鹿にするけれども、壮麗な寺院や見事な仏像彫刻は、日本に仏教が土着したからこそできたものだし、その過程において日本の土着の宗教と混じりあい、溶けあいながら新しい教説を日本に導入してきたという理解がなければ、例えば本書でも扱われている地蔵信仰などは全く理解できないのではないかと思います。「あんなものは違う」と言って終わりになってしまう。
あるいは例えば禅は禁欲的と言いますが、本当に禁欲一辺倒ならあのような文化的な遺産を残すことはなかったはずです。「不立文字」といいながら、しかし同時に大量の書があり、画がある。文化の豊かさというのは、始源の純粋さだけでは実らないものなのかもしれません。まあ、信仰がないからこそこんな風に言えるのかもしれませんが。


さてこの本では、民俗学を援用しながら、仏教が日本の宗教的土壌にどのように適応し、変容していったかを、具体的なトピックで考察していて大変面白いものでした。地蔵のほかに、僧侶の肉食妻帯、地獄と極楽、神仏習合、そして葬式といったネタが扱われています。
大変面白かったので、自分がまだまだ無知な日本仏教について、もうちょっと知りたくなってきました。