疑似科学、批判、道徳


左のほうの「水からの伝言」騒動を観察する - 玄倉川の岸辺

いやー面白いろいろ考えさせられますね。この正月は、はてな界隈では南京事件が注目されていてまったく知らなかったので、完全に今北産業状態なわけですが、いろいろな問題を含んでいた騒動だったようです。


発端は、ぶいっちゃんさんの「らんきーブログ」で2006年3月に書かれた文章に例の「水からの伝言」が肯定的に言及されていて、そのエントリにたんぽぽさんが疑似科学を信じている例として言及。これにぶいっちゃんさんが反発、彼の周囲の人々も同調してたんぽぽさんを批判。他のブロガーも巻き込んで二手に分かれてしまい、騒動に。

問題点

読んだ限りでは、ぶいっちゃんさんが過去の記事に批判的に言及されたことに動揺してしまって、冷静に受け止められなかったということに尽きると思います。そのために、水伝に肯定的なエントリを書いてしまったという以上に問題のある発言・対応が出てきてしまった。さらに彼に同調する人々が全くそれを正そうとしなかったことで、解決を遠ざけてしまったのではないでしょうか。


まあ、水伝を肯定的に受け止める時点で「いくらなんでも科学に弱すぎる」という問題は小さくないのですが、それ以上に、指摘があった後の態度はまずかったと思います。元の記事にこういう追記がされたそうで(現在は書き換えられているようなので、たんぽぽさんから孫引きです)、

この記事の肝は「ありがとう」とかそんな言葉が大事だって話なだけですから。
何でも難しく屁理屈言う人には通じない言葉ですけどね(笑)
科学的に証明されていないと、ブログ中で、但し書きで書いていても、
文句をつけてくる人がいるのには驚きでした。
私がどうでもいいと思う事ですら文句を言われるのですからねw

これはダメダメでしょう。ある主張(「ありがとう」は大事)のためにある根拠(水だって言葉に反応する)を使って、実はその根拠が間違っていたわけです。このとき

  • 確かに根拠の一部は間違っていたが、しかし主張の正しさに変わりはない

と言うのであればまだよかったのですが、他の発言とあわせて見ても、彼の態度はこうでした。

  • 主張が正しいのだから根拠が間違っていても大したことではない。というか、その根拠が正しいかどうかはどうでもよく、興味がない

この2つの態度は、一見似ているように見えることもあるけれども、決定的に違います。後者は、はっきり言って致命的に問題のある態度と言わざるを得ないでしょう。水伝を肯定的にとらえたこと自体も問題だけど、誰にでも不得手な分野というものはあるし、間違いだって誰にでもあることです。だけれども、ある主張のために使われる根拠が正しかろうがトンデモだろうがどうでもよい、というようなことでは、まともな議論などできるはずもありません。ここに至っては、水伝に肯定的に書いたという個別の問題ではなく、議論というものをどう考えるかという、もっと根本的な部分での問題が浮きでてきたわけですよね。


ところで、間違っているものを「科学的に証明されていない」と表現してしまうのは、よくあるというかコモンエラーですな。これって歴史修正主義者たちが史実に対して「証明されていない」とか「決着がついていない」とか言うのとほぼ同じですよね。

批判

ところが、なぜかたんぽぽさんに対して「批判のしかたが悪い」「言い方があるだろう」などというような批判が出てきちゃう。公衆の面前で批判するんじゃなくてメールでそっと聞くとかすればよかったのに、という。これは見ててイタイですよー。子供を諭そうってんじゃないんだから、むしろ失礼なんじゃないかなー。公開の場で意見を表明しているんだから、どこから批判されても当たり前なのにさー。たとえば政治家のブログにバカなことが書いてあったとして、エントリで批判する前にメールでそっと真意をたずねたりするの?しないでしょー?


どうもね、似たような方向性をもつ「仲間なんだから」っていうのがあるようですけどね…。しかし議論は是々非々でやっていかないと。個々の議論には敵も味方もないでしょう。政治的に敵対する相手だって良いこと言うときもあるでしょう。「共闘します」とか言ってる人が何人かいましたけど、非常に奇異に見えますよ僕には。仲間が言ってるというだけの理由で間違った議論を擁護してどうしようっていうんでしょうか。むしろ仲間の発言こそ真剣に批判しなきゃ。
僕の書く文章にたいしても、よく共感してくれたり肯定的に言及してくれたりする人達もいるけれども、僕が「根拠の正しさはどうでもよい」なんて言った日には、一体どうなることか…。あの人やあの人、特にあの人なんかは、それはそれは厳しくしつこくネチっこく突込んでくれることでしょう…おおホリブル。


それに、僕は「より良い社会」を目指すというときには、確かに共感も大事だけれども、それ以上に啓蒙こそが頼みの綱だと思ってるので、共感のために反知性主義的な振舞いに目をつぶるような態度には、まったく同意できませんね。

道徳と科学

さて、ちょっと角度の違う話を。


水からの伝言」が道徳の授業なんかで使われた問題については、「ニセ科学を肯定的に教えてしまう」ことと、「科学を道徳の根拠にする」ことの二重の問題があるわけですよね。で、後者については、結構微妙なケースもあるんじゃないかという気もしているわけです。正確に言うならば、道徳を教えるときに科学を引き合いに出すことを「どの程度厳しく戒めるべきか」は、案外微妙なところがあるんじゃないかと。


それはニセ科学じゃない本物の科学を引き合いに出した場合を想像して、ふと思ったことです。たとえば、ある動物や昆虫が、利他的な行動をとることが生物学的に知られているとします。これを引き合いに出して「○○でさえ思いやりの心がある。人間も見習うべきだ」というように道徳的な主張に「利用」したとします。この発言は、非難されるべきでしょうか?
もちろん、その動物が利他的であろうがなかろうが、そんなことには関係なく思いやりを大事にするべきです。それはそうです。科学を道徳に利用しようとした上の例は不適切だろうとは、僕も思います。だけど、このくらいのことだったらそんなに「こっぴどく批判」しなければならないとまでは思えないんですよね…。そんなに罪がないような感じがするっていうか。もちろん正しいとは言わないし、誰かがああ言ったら僕は「ま、○○がどうかには関係なく、思いやりは大事だけどね」くらいの指摘はするでしょうけど、でも「それは間違ってる、おかしい」とまでは言わなさそう、というか。微妙じゃないかな、っていう。どうなんでしょうね。