マナーと迷惑と権力、または「あの人どうにかしてください」
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中島義道がどこかで、電車内で流される「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」という漠然として誰に言ってるのかわからないような放送をやめ、たとえば「今○両目に駆け込んだ眼鏡をかけた男性、危険だからやめなさい」という具体的な指摘にすればいい、みたいなことを書いていたような記憶があって探したんだけど見つかりませんでした。記憶ちがいかな?
かわりに、こんな箇所を見つけました。井の頭公園で花見の季節に「池に飛び込まないでください」などという管理放送に憤慨し、中島は管理事務所に電話します。
管理事務所のXは「一人でも池に飛び込むかぎりはやります」と絶対に讓らない。だが、Xのみを責めてばかりはいられない。善良な市民はみずからは一ミリも動かずに「お上」に向かって「ああしてくれ、こうしてくれ」とダダをこねるのである。それは -- 始末の悪いことに -- 「もっと看板を立ててくれ。もっと標語を貼ってくれ。もっと放送してくれ」というほど具体的なのだ。
(中略)花見客の喧騒狼藉にいらだつ同じ住民が、各戸の窓も打ち破る大音響管理放送にいらだたないのだからほんとうに不思議である。私人のすることなすことにはいらだちながら、「お上」のすることならどんな暴挙でも鼓膜や網膜を通過してしまうからだ。これが現代日本人の「からだ」なのだ。
─『<対話>のない社会』p.62
もう一つ、電車や駅構内での管理放送に触れた箇所。車内での携帯電話の声がなぜ嫌われるのかについて。
(…)私人が公共の場所で「私的なこと」をのうのうとわがもの顔で喋っていることが許せなのだ。こうした人は、たぶん車掌がエンエンと車内放送を大音響で続けてもうるさくないのだろう。同じように「私的なこと」であるはずの「お呼び出し」でさえ、うるさくないのだろう。なぜなら、それは権力(電鉄会社)を経由し権力を背景にして発せられているからである。
「マナーを徹底させよ」と車掌や駅長に訴える人間は、「音」の権力構造につゆ疑問をもたない人間のようだ。
─『うるさい日本の私』p.206
まあ正直、僕は中島義道とあまり友達になりたいとは思いませんが、しかし言われていることはよくわかります。こうした場面では、人々は自分の「不快」を「みんなの迷惑」に変換し、権力を通じてその原因を解消させようとするわけです。ヘッドホンの音量をその場で自分で注意するかわりに、マナーポスターやキャンペーンを求めるわけです。直接言うのは恐いからね。
でも、別に恐くもなんともない場面でも、こういう行動パターンはよく見かけるものです。何か不愉快なことがあると、直接その対象に向かって抗議したり批判したりするのではなくて、上位の権威に訴えて「あの人なんとかしてください」という。何しろ水戸黄門が長寿番組になる国ですから(僕はアレ嫌いなわけじゃないけどね)、「お上」に悪いやつを懲らしめてもらう、という行動はとても自然なのなのかもしれません。たとえそれが、犯罪のように個人が対応するのが困難なケースではない、ちょっとした「迷惑行為」であっても、ひとまず「お上」に訴えるという。
例えばこないだの青学の瀬尾という人の発言。確かに愚劣で酷い代物ではあるのだけれど(誤読を差し引いてもね)、そこで大学に電凸するというのは、大学当局という権力に「あの人どうにかしてください」と言い付けるっていうやりかたですよね。大学側は、丁度「マナーを徹底させよ」と言われて大音響の管理放送を流す電鉄会社や公園管理事務所と全く同じように、学長が「関係者に多大な迷惑をかけた」と謝罪するという対応をしました。関係者って誰でしょうね。非難の電話が殺到したおかげで対応させられた事務方とか、あるいは大学の支援者とかでしょうか?「世間を騒がせる」というのはこの国ではよく起きることのようですが、どうもいつも、誰がどのような被害を被ったのかよくわかりません。電凸した人たちのほとんどは瀬尾が言及した対象とは何の関わりもないでしょうに、瀬尾の言論を批判するだけでは足らずに「あの人迷惑です!なんとかしてください!」というわけ。
自分の不快感は自動的に「世間の怒り」であり「お上」によって「懲らしめられるべき」対象になる。まるで瀬尾に貶められた相手の代弁でもしているみたいです。
あるいは卒業式の国歌斉唱で生徒達が着席すると、それが気にくわなくても生徒達を批判するのではなくて(生徒を一人前とは思ってないので)、教員を非難したり、地域の教育委員会に訴えたりする。訴えは「世間の声」が聞き入れらるまで、上へ上へと上ってきます。
弁護士の発言が気にくわないと、懲戒請求を出して「世間の声」を届かせようとする。もちろん問題にされるのは弁護士自身が犯罪を犯したとか職責を全うしていないとかいうことではなく、発言の内容が不愉快だということであり、発言の仕方が不適切だということです。不快なものはとにかく排除したいのです。不公正を訴えるのとは全然違います。
歩行者天国でケツを見せても捕まります。迷惑で不愉快だからです。
仕事中にちょっとテラ豚丼なんか作って遊んでもダメです。すぐ電凸です。
以前、国旗国歌について書いたとき*1、マナーよりも自由のほうがずっと大事だろ常考、と言ったら「そんなの時と場合による」みたいな反応があったりして、ギョッとしたことがあります。マナーとトレードオフできる自由なんて、そんな絞りカスみたいな「自由」の話をしてるつもりはなかったんだけどな。
「あの人どうにかして!」とは、権力を信じきっているからこそ出てくる態度です。どういうわけか、その人達は「お上」はいつでも自分たちを守ってくれるものだとばっかり思い込んでいる。だから反戦ビラを撒いた人達は「迷惑だから」公安に捕まって長期勾留されても当然だと思う一方で、自分が参加したデモが警察に抑えられると急に裏切られた気持ちがして「最低の国だ!」などと言いだす。政治的主張は「迷惑」なんじゃなかったの?
もし仮に、自由に責任が伴なうとすれば(僕はこの言い回しを憎んでいますが)、それは「規範を逸脱した時に無条件に罰を受け入れる」という責任ではなく、むしろ「他人の行使する自由に対して、必要とあれば自分自身の自由を行使して抵抗する」責任なのではないかと思います。
もちろん念のため書いておくと「何があっても警察を呼ぶな」とかいう話じゃありませんよ。そうではなくて、些細な「不愉快」を抑えるために権力におもねることは、すなわち、そのような些細な領域にまで権力の拡大を認めることにほかならない、ということです。そうやって社会生活のすみずみにまで力の支配を行き渡らせたいのでしょうか。権力は必ずしもあなたの味方とは限らないんだけど、「お上」に「あの人どうにかして!」と訴える人々は、実際には権力に栄養を注ぎ込んでいるわけでしょう。そんなことが広がっていくと、なんでもない人の行為がいつ「迷惑」認定されるかわからなくなる、そういう想像力は必要だと思います。