単純な疑問を「知るかボケ」で流せば、思考は硬直化する


ネットやってても、キミの世界観は広がらない - Attribute=51

まあ何を使ってても批判的な態度ってものが無ければ硬直するでしょうとは思うんですけど。でもネットに特徴的な部分ていうことでは、短い文章で沢山の人が似たような意見を言っているとき、それをある種の常識とか共通認識というか common sense みたいに感じちゃうっていうのはありそうな気がします。本だと一冊長々と読んでても「これは著者の意見」ていう意識を持ちやすいけど、いろんな人が似たようなこと言ってると、なかなか難しくなるところもあると思う。

普通のブログエントリなんかでも十分短いけど、2ch とかはてブのコメントなんかはさらに短くて、その代りに沢山の人が書いてるから。「あーみんなこういう意見なんだ」で多数派に加わって安心しちゃうというのはあるんじゃないかなぁ。もちろん「みんなの意見」が見えるというのも大変なメリットなんだけど、それとどう付き合うかっていうね。


たとえば、はてブではよく痛いニュースが上がってきますよね。僕も過去にいくつか言及したんだけど、たとえば先日のもそう。

グリーンピースによる鯨肉横領告発

これさ、痛いニュースで「無断で持ち出し、食べる」ってなってるんだけど、誰だって「グリーンピースのくせに何で食べるんだよ!」て思うと思うんですよね。単純な疑問として。「どうして?」って思うでしょ。で、調べてみればどうやら「持ち出した肉じゃなくて、市場で調査する中で聞き込みの時に食べた」ってことらしいとわかる。グリーンピースの出してる PDF をざっと読めばそれはすぐわかる。痛いニュースの元のスレ読むのと大して時間的には変わらないと思うんだけど、そっちはみんなあんまり読まないんだよね*1。盗人の言い分には聞く耳を持たねえってことなのかな。


「一次ソースに当たるのが大事」というのは色々なところで言われてるけど、僕が思うのはそれと同時に、むしろ単純な疑問を無かったことにするのは良くないというか、素朴な疑問をもっと大事にしたほうがいいんじゃないかなーっていうか。あー何か微妙に誤解されそうな気がする。えーと「何で食べちゃうんだよ?」という疑問に対してキチガイの考える事なんかわかるかボケ!」で納得するのは良くないよね、というか。


僕が痛いニュースに言及したのでは、こういうのもある。
妙だな、と感じる理由
これは光市母子殺害事件弁護団の話なんだけど、「21人もいる弁護士がそろいもそろって荒唐無稽な話をしてるなんて、一体どうしたんだろう?」という疑問は誰だって持つと思う。だけどそれを「凶悪犯の肩を持つエセ人権派キチガイ弁護士の考えることなんか理解できるかボケ!」で納得しちゃうのは良くないんじゃないか。何かあるんじゃないかって引っかからなきゃいけないんじゃないかなぁ、という。


あとこういうのもあった。
広島平和センターの新理事長は、亥年で核廃絶推進派の人です
これも「広島の原爆祈念館が原爆投下を正当化するなんてこと、本当にありえるの?」という、誰の心にも浮かんだはずの疑問をすっとばして非難して終了、はマズいでしょうっていう。


まぁ、浮かんだ疑問が全部的を射ているとは限らなくて、例えば
「水道屋の格好したのはコスプレ趣味」というコピペ
みたいに、見落しが原因で出てきた疑問もあって、この場合はネットで書いたおかげで指摘をしてもらえたわけですが。



誰でも持つはずの単純な疑問をすっとばして非難して終了、ていうのは、自分とは異質なものや意見の異なる相手を「理解不能な対象」として排除する態度に他ならないという気がします。だから、本当は直観的に疑問が浮かんだとしても、排除の論理というかある種の防衛というか、そういうのが働いて無意識のうちにその疑問をどこかで抑圧してしまってるのかも知れない、とか思ったりするんですけど。どうかなぁ。そんなんじゃなく単に面倒くさいだけなのかもしれないし、そもそも皆そんなに疑問が浮かばないのかもしれないけど。

なんというか、自分の中に浮かんだ「なんで?」という疑問とどう付き合うかっていうのは、その人の思考のありかたそのものにとって、すごく本質的な部分じゃないかという気がするんですよね。ここをぞんざいにしてしまうと、たぶん思考なんて簡単に硬直化しちゃうんじゃないかという気がします。この辺は自分自身への戒めも込めて思うわけなんですけれども。

もちろん変な疑問からスタートして変な方向に推論して変な結論を得るという場合もあるわけですけど…。
livedoor ニュース - サイクロンがミャンマーの政権転覆狙った人工災害だとしたら・・・
の人みたいに。

*1:PDF はこういう時若干不利という気はする