死刑存置とは「間違って殺しても仕方ない」ということ


死刑廃止論に対する反論としてよくあるのは、例えばこういう意見です。

廃止論者は一パーセントでも、冤罪・誤判の可能性があるならば、死刑に処してはならないと主張するが、逆に九十九パーセント冤罪ではなく真犯人であると確信でき、残虐な方法で多くの人を殺したということがいえる場合であっても、なおその人にたいして死刑にしてはならないというのは、国民感情論からいっても納得できまい。

これは言いかえれば「国民感情論からいって納得がいくためには、冤罪の可能性が極めて低いと思われるであれば、間違って殺してもかまわない」ということであるはずです。私はそういう意見には同意できません。


また、上の文章の続きですが、こういう意見も多いでしょう。

また、冤罪・誤判の場合、廃止論者の主張する終身刑であれば取り返しがつくということでもなく、刑務所で過ごした日々は戻ってはこない。したがって、以上のことから私は死刑制度の存置を主張する。

私は死刑の代替としての終身刑には反対ですが、終身刑だって取り返しがつかないのだから殺してしまっても結局は同じ、という意見には全然賛成できません。


特に、先日釈放された菅家さんの発言を見て、さらに強くそう思うようになりました。

 冤罪(えんざい)を背負わされた怒りに声を震わせた。栃木県足利市で女児が殺害された「足利事件」の逮捕から十七年半。菅家利和さん(62)に対する司法の遅すぎた答えは、再審開始が決定する前の異例の釈放だった。「絶対に許せない。自分の人生を返してほしい」。捜査と裁判への不信感をあらわにした菅家さんは「冤罪で苦しむ人たちを支援していきたい」と力を込めた。 

殺されてしまったら、こうして声を震わせて怒りを語ることができないじゃないですか。捜査が不当だったと糾弾することができないじゃないですか。無罪が認められたと墓参りすることができないじゃないですか。


足利事件では、その前後に別の似たような殺人事件がありました。

足利事件が冤罪ということは何を意味するのか - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!

しかも、菅家さんは他の事件についても自白させられていました。

12月21日 Aちゃん事件で菅家さんを起訴。
同日    菅家さん、Bちゃん・Cちゃん事件も自供

仮にそれらの事件について警察が「物証」を出すことができていれば、起訴され有罪になっていた可能性だってあるのです。そうして2人、3人の殺害が裁判で認められていたら、死刑判決だってありえたでしょう。そして、ハイペースでの処刑が常態化している現在の日本では、「速やかな法の執行」として、殺されていたかもしれません。これは決して突飛な想定ではないはずです。


実際、疑わしい例があったのに、僕達はもう殺してしまった。

久間三千年さんは、2006年9月に死刑が確定しており、確定から2年あまりで執行された。現在70歳である。久間さんは一審より一貫して無罪を主張した。公判においては自白、物的証拠もなく、動機も明らかにされないまま死刑判決が下された。唯一の根拠となったDNA鑑定も、複数の鑑定結果がそれぞれ異なっていた中で、科学警察研究所のおこなった1つの鑑定結果のみが採用された。

この死刑執行の2日後の10月30日、国連自由権規約委員会は死刑廃止を前向きに検討するよう勧告しました。去年の10月のことだから、まだ覚えてる人も多いと思う。

はてなブックマーク - 死刑廃止、前向きに検討を=日本政府に勧告−国連委(時事通信) - Yahoo!ニュース

国連「日本死刑廃止汁」:アルファルファモザイク


菅家さんのケースが提起しているのは単に DNA 鑑定の精度といったテクニカルな問題だけではありません。警察の捜査のありかた、可視化や代用監獄の問題といった構造的な問題*1と同時に、人間のやることに間違いは必ずあるという原理的な問題でもあると思います。

*1:「髪の毛を引っ張ったり、足でけ飛ばしたり」されたという件もきちんと検証されることを期待します