うん、断罪せよと言いたいわけではないです


トラックバックから。

例えば帝国主義批判なんかをする際、後藤新平とか寺内正毅を標的にして"断罪"したり"非難"したりすることは歴史学上では全く意味をなさないと思う。
(中略)
歴史家の仕事というのは、現代と過去との"価値観"を相対化した上で、歴史的事実から得られた教訓を普遍的知識にまで高めることではないか。

なるほどごもっとも。「教訓を普遍的知識に」していくためには、いずれにせよ批判的に検討することは必要だけれども、そこが安易な「断罪」や「非難」であってはしょうがない、ということでしょうか。

そういう意味で「断罪するな」というのは納得です。こないだのエントリでは「批判をかわすために『断罪するな』という人」が、まず念頭にありました。自分がもってなかった視点に気づかされましたね。うむ。