釜ヶ崎でこそ報道の自由を行使するべき

 大阪市西成区の西成署前で13日から5夜にわたり、労働者らが投石などを繰り返した騒動で、府警警備部と同署は18日、道路使用許可を得ずに街頭演説を行ったとして、道交法違反の疑いで、釜ケ崎地域合同労働組合委員長、稲垣浩容疑者(64)=大阪市東淀川区淡路=を逮捕、組合事務所などを捜索した。調べに対し黙秘しているという。

無許可で演説して通行を妨害した、というのはアレか、以前郷ひろみが渋谷でゲリラライブをやって渋滞を起こしたときみたいな話かね。あの時は関係者が書類送検されただけだったはずだけど、今回のは逮捕できれば何でもよかったんじゃないんですかね。

記事では過去にも逮捕されたことが書いてありますが、2年前の「公園でホームレスの状況を調査中の大阪市職員に暴行したとして」という件についてはこんな話が。

定期的に大阪市建設局は、清掃・消毒に入る汐見橋大阪市浪速区)周辺で野宿生活する仲間の小屋で、清掃作業の際に不当な嫌がらせがないように監視する行動に継続的に取り組んでいます。4月27日(木)の同作業の際、市職員(大阪市建設局)が当人の許可無くビデオ撮影しているのを稲垣さんが抗議したことをもって、「威力業務妨害」と「暴行」としているものです。報道されたような手首をつかんだとか胸を小突いた、という報道は大阪市・警察の説明をそのまま鵜呑みにしたものです。

警察の暴力というと、記憶に新しいのは「踏み字」をさせたという話でかなり話題になった志布志事件があります。
志布志事件 - Wikipedia
このときはテレビを始めとする大手メディアが意欲的に取り組んでいました。事件発生の時点からは時間が経ってはいましたが、ああいった報道はとても大事だと思います。

今回の釜ヶ崎騒動の発端は、志布志事件よりもずっと直截な、身体的な暴行が警察によって加えられたという証言です。さらに、騒動の最中での逮捕者に対しても暴力がふるわれているといいます(強調引用者)。

しかし、二日間で少女1人を含めて14人もの不当逮捕者が出ています。釈放された人の話によると、機動隊につかまり引きずり込まれるとその場で殴られ、踏んだり蹴ったり引きずられたりして、盾の水平打ち等の暴行を受けたそうです。西成署の中に連れ込まれると10人くらいの労働者が正座させられており、ちょっとでも膝をくずすと怒鳴りつけられたとのこと。拷問のような仕打ちです。組合は救急車を呼んで病院に同行しましたが、50代のその労働者は病院の待合室でも警察から受けた暴行に対する恐怖におびえていました。

拷問のような、というよりもむしろ、拷問そのものと言うべきでしょう。
また、放水車による放水を受けて目を負傷した労働者もいるようです。

「銀座通りで放水車による放水の直撃を受け右目がつぶれ見えなくなった」と負傷した本人から連絡があった。2週間の絶対安静でその後手術が行われる予定。見えるようになるかどうかは今のところわからないと医者が言っている、とのこと。

大手マスコミはこれだけの重大事件を放置すべきではありません。特にテレビでほとんど放送されないのは*1、不可解といっていいほどです。秋葉原で献花台が増設されたとか、新しい地下鉄が遅延したとかいう話のほうが大事件だとでもいうのでしょうか。警察による暴力の証言があるのに、その証言者をきちんと取材しないでは、これまで懸命に主張してきた「報道の自由」とは一体なんのためのものだというのでしょうか。



釜ヶ崎は、よく知られているように日雇い労働者の集る地域です。僕はその歴史をあまり知らなかったのですが、この地域は政策的にそのような場所として作られてきた面があるそうです。

まず労働の側面からみれば、戦後の労働行政は職安を充実することによって手配師などを経由した労働力供給の形態を断ち切ることを目標として掲げてきたが、釜ヶ崎においては業者と労働者との直接交渉が特例として容認され、手配師の存在も事実上黙認された。民生事業の側面からは、大阪市においては各区毎に民生局が管轄するが、釜ヶ崎にはこの地区を管轄する特別施設として市立更正相談所(市更相)が1971年に設置された。釜ヶ崎の福祉の窓口はこの市更相が担当するのであるが、そこでは生活保護が必要な労働者の切捨てが日常となった。居住の面からは、あいりん対策が進行中の1960年代において行政サイドは簡易宿所の存在を積極的に認識し、流入してくる労働者を受け入れるべく建替えを行うよう「指導」していた。 つまり、あらゆる側面で釜ヶ崎は一般的な諸制度から切り離された「例外的な空間」として整備されたのである。

その例外性が、マスコミに報道されない一因であることは確かなのでしょう。この例外性が、少なからぬ人々をして「あそこではそんなのよくあること」と言わしめるのでしょう。90年以来の暴動であるはずなのに、それが「いつものこと」と認識されてしまう。その空間が「何が起きてもおかしくない」例外的な場所だからなのではないかと思います。



一方で、抗議行動が平和的には収まらず、投石などが行なわれていることを問題視する向きもあるようです。もちろん、その点に対する批判はあっていいでしょう。けれどもそうした批判は、なぜそんなことになってしまったのか、本当の原因に対する問題意識を覆い隠すものであっては意味がありません。

もちろん、ぼくも自転車は投げない方がいいと思う。
当たったらイタいし、投げられてスクラップになる自転車もカワイソウ。なにより、それで生活費稼いでいる人にとっては大きな痛手だ(主に西成署北側の塀に沿って止めてあった自転車が投げられたり、バリケードがわりにされた)。

でもね、何でここまでみんなが怒るのか、ということに目を向けないと、問題は永遠にどうどうめぐりなんだろう。
何でみんな、1人の仲間が受けた仕打ちを自分のことのように怒れるのか、それだけ「覚え」がある人が多いことに他ならないということだから。

3月のチベット暴動でも、商店への襲撃など破壊的な行為がありました。それらは確かに問題であるとしても、より重大なのはやはり当局による継続的な抑圧だと言うべきです。釜ヶ崎でも同様です。暴力を肯定することは僕にもできません。しかし、そこまで彼らの怒りが爆発したのはなぜなのか、これを抜きにして批判しても問題は何も解決しないでしょう。



ワーキングプアはその問題を自己責任に還元しようとする人々がおり、ネットカフェ難民はその存在を否認しようとする人々がいます。彼らのような「新しい貧困層」がもし団結したとしても、釜ヶ崎の労働者たちのように、「例外的な人々」として扱われてしまうかもしれない。そうして差別と暴力が加えられても「そんなの前から当たり前。何を今さら騒ぎたててんの?」と言う人は必ずあるでしょう。
なぜあなたは知っていながら騒がなかったのか?
日雇い労働者やプロ市民人権屋やエセサヨクが気にくわないというなら、好きなだけ罵声を浴びせればいい。けれども同時にその罵声を、権力にもまた向けてもらいたいと思います。

*1:取り上げた番組もあるようですが