趣味が悪くてもいいんですってば


だって、そんな大した欠点じゃないじゃないですか。それくらい。運動が苦手とか音痴とかと似たようなもんでしょう。あふれる教養がありながら悪趣味という人もいるのだし。逆に教養があふれすぎて勢い余って悪趣味に走る人もいるけど。


僕はただ「どんなに人それぞれなんていってみても、やっぱり悪趣味は実在するよ」と言いたかっただけで、ラッセンには別に恨みはないです。ラッセンが好きな人にも。ただわかりやすい例かなと思っただけなので。お好きなんだったら、どうぞ末長く大事にして下さい。悪趣味だとは思うけど、別に非難してるわけじゃありません。


なんであんな嫌らしい話を書いたかっていうと、ものの良し悪しがわかるでもなく、自分の美意識を信じているわけでもないくせに、その自信のなさを糊塗しようとして、きいた風な口で「人それぞれだから押し付けはよくない」とか言う、そういうごまかしが僕は嫌なんです。ケータイ小説でもなんでも、良いものがあるなら「これが良いのだ」と堂々と言えばいいのに、自信がないもんだから「価値観は相対的なもので」とかなんとか、ビクビクしちゃってさ。わからないならわからないでいいし、本当に良いと思うならどれだけ悪趣味と言われても擁護すればいいのに。
そうやって主張することもせず、ただ価値を相対化しようとすることは、つまりは本当に良いものの価値を貶めようとすることでしかない。それは許せない。


芸術に優劣はつけられない、というのはその通りだけど、それは「良いものはそれぞれに良いので、一律に比べられない」という話であって、つまり「良いものどうしは比べられない」というだけのことであって、ミソもクソも一緒ということじゃない。でしょ?価値基準を左右する社会的な力学とかもいろいろあるんでしょうけど、そういう分析をしたからって悪趣味が悪趣味でなくなるわけじゃないですしね。もしも大衆がいつか趣味を洗練させる時がくるのなら、その時こそ真に芸術は大衆のものとなるでしょう。教育も啓蒙も放り出してただ悪趣味に迎合してみたって、何にもなりゃしません。


「良さ」というものの「基準」とか「定義」とか、そんなのは無意味だと僕は思ってます。せいぜい事後的に好みを分析することができるだけ。前もって「良さ」を定義したらその瞬間に、そこから逸脱するユニークな「良さ」がこぼれ落ちてしまう。正解を計るモノサシを求めているうちは、直観を信じることなんてとてもできますまい。

まぁ、金もないくせにブルジョワ趣味ってことなのかもしれませんけどね。それならそれで構わないや。