趣味の悪さというもの


女の子の部屋に行って壁に架けてあるのが動物写真のカレンダーなんかだったら害がなくていいのですが、ラッセンの絵が貼ってあったら僕は「うわ、趣味悪いな」と思わずにはおれないでしょう。決して「この子は自分とは好みが違うんだな」ではない。口では「僕とは好みが違うかなぁ」と言うかもしれないけど、実際には「趣味が悪い」と思うのであって「自分と違う」と思うのでは絶対にない。


ある作品なり何なりを良いと思うかどうかは人によって違いますが、それが人気があるかどうかということと同様に、それが優れたものであるかどうかということもまた別の話です。「優れているかどうか」という評価も人によって差があることは確かですが、それはある程度までであって、完全に相対的ではありません。つまり、駄目なものがあり、駄目なものを好む人がいる。
趣味の悪さを指摘されると「自分の価値観を押しつけるな」などと言う人がいるわけですが、そうではなく、駄目なものは駄目なのです。あなたの好きなそれは、実に下らない、とるに足りない趣味の悪いものなのです。しかしその根拠をあなたに示すことはできません。
なんだか嫌われそうですね。だけど、理解できない人には説明のしようがないと知りつつ、良心に従って言うならば、そう断言せざるをえないのです。


カントの人間学 (講談社現代新書)
中島義道『カントの人間学』より。

だが、まさに美とはそういうものであること、「よい趣味」と「悪い趣味」が歴然とあること、しかもわれわれはこれを決して多数決によって決定しているのではないこと、つまり、美のデモクラシーはどこにも成立していないことは誰でも知っていよう。

清少納言は「私は春はあけぼのがよいと思うが他人は違うかもしれない」という謙虚な姿勢のもとに『枕草子』を書いたのではない。春はあけぼのがよく、いかなるこれに対立するセンスも認めないという信念のもとに、すなわち、すべての人の美的判断を自分の美的判断に従わせようという強烈な「要求」を自覚して書いたのである。

彼女は妄想でもなく、個人的な快感に基づいてでもなく、確かな感受性に支えらえれて「春はあけぼの」という判断を下したのである。(中略)たとえ、身を守るためにこの判断を表面的には撤回したとしても、「それでも春はあけぼの」と内心で呟いたに違いない。


あなたが良いと思うものが良いものなのだ、という考えは、こうした感受性や直観に支えられていれば妥当でしょうが、そうでなければ単なる個人の好みでしかない。好みと人気と優劣は、すべて別々の要素です。好みはその人自身が判断するだけだし、人気は客観的に言えるでしょうが、優劣はそうはいかない。にもかかわらず、優劣を理解する人にとっては、それは実に歴然としているのです。趣味のない人には優劣はわからないが、わかる人には歴然とわかる。あれこれ理由を述べることはできるかもしれないけど、そんな説明で趣味のない人に優劣を納得させることはできない。批評というのは、趣味のある人のあいだでしか機能しない。


「売れる作品が良い作品だ」などと訳知り顔で言う人がいますが、商売としては正しいかもしれませんが、本当にそれが優劣だと思っているならば、その人は単に趣味がないのです。自分では何が優れているか判断できないので、人気という別の指標に置きかえているだけです。「優劣の基準なんて誰かが作ったものでしかない」という人も同様。自分で判断できる人は、誰かの基準に照らして判断などしていない。趣味判断の傾向を説明する分析はできたとしても、それで優劣が相対化されるわけじゃない。


理解できない人はきっと、僕が自分の好みを絶対化していると思うのでしょう。違うのです。好みと優劣は別だと言っているのです。簡単でしょ?人は、駄目な人に恋してしまうことがあるように、駄目な作品を好んでしまうことがある。駄目なものばかりを好きになる人がいる。「そいつは駄目だ」と言われると「好きなんだからいいじゃない」とムキになる。僕も「好きなんだからいいじゃない」と思います。ただ「私の好きなもの」が「優れたもの」とは限らないということは受け入れます。あなたがそれを好きなのは別にいいけど、でもそれは下らないよ、と。僕だって、つまらないものに感動しちゃうことありますから。でも感動した事実があるからそれが優れてるなんていうのは、嘘ですよ。自分の安っぽさが露呈しただけです。
いや、趣味のよしあしと優劣もまた違う面があるんだけど、微妙になってくるのでやめます。


うーん、やっぱり嫌われそうですね。でもどうしても「芸術は大衆のもの」とか全く空疎な言葉だと思うし、こと美や芸術に関しては、僕はとても保守的なんですよね。