文化の需要


文化と産業は排他的なわけではないが、文化を産業としてしか見ないのは問題だ、という意見を以前書きました。また、どんなにダメなものでも文化でさえあれば公的支援をするべきだ、などとは思いません。ただ、文化に対して公的な支援をする上では、それだけの価値あるものに対して行なわなければならないが、その価値は、客が入るとか入らないとかの狭い「費用対効果」で測るべきではない、と思うわけです。


…と、短絡する人(必ずいる)除けの前置きをしておいて、ちょっと前の記事なんですが。

橋下知事が「僕は学者や有識者に、需要がなくても守るべきものを守れと批判されているが、需要があろうがなかろうがお金をつぎ込むべきか」と問いかけると、「文化を費用対効果で考えるべきではない」との意見が出た。ただ、「需要がなければ消えるのが当然。弱肉強食だと思う」という声もあった。


ま、無教養な橋下知事がこの調子なのはわかってることなので置いときます。むしろ僕はこの「弱肉強食だと思う」と発言した学生に失望せずにはおれません。たぶんあんまり賢くない子なのかなという気もするんだけど、この学生たちはまがりなりにも「芸術を学ぶ学生」なわけで。一体、君たちは何を学んでいるんだ?と言いたい。

想像を逞しくすれば、「弱肉強食だと思う」と述べた学生は、作り手を目指すものとしての自分なりの意気込みなり決意なりをもっていて、「自分がサバイブするためには、売れるものを作るしたたかさが必要だ」とか思ってるのかもしれなくて、それがこうした発言につながったのかもしれませんけれど。


ただ「需要がなければ消えるのが当然」などという発想は、「良いものは売れる」「売れるものは良い」という循環論法的な価値観に基づいているのでしょうけれど、もちろんこんなのは市場原理主義イデオロギーと呼ぶにふさわしいものであって、ものの良し悪しを学ぶ学生は当然こういう価値観を相対化していかなければならないと思います。文化の価値をしっかりと理解できるよう学んで、その上で現実を見るならば、良いものが必ずしも売れるわけではない、という例は無数にあるはずです。それが現実なのです。「売れなかったということは、良くなかったのだ」という考えは間違っていて、「良いものを作ったが、売れなかった」という現象は現実に起こるのです。
…というような話をすると「良いものの定義を教えろ」とか言われそうですが、そんな「定義」など無意味だということは以前書いたとおりです。


世の中には産業として成立している文化もあればそうでないものもあります。「弱肉強食」だの「必死さが違う」だのいうのは、産業として成立するかどうかを文化の優劣と見るような、浅はかで愚かな見方です。たとえば全国各地には公立美術館がありますが、公的資金なしでやっていける館はおそらく一つもないはず。金持ち達がもっと気前よく寄付してくれたりする社会ならそれでやっていけるでしょうが、それでは足りない以上、公共と大衆が資金源となります。公共は支援せず、大衆が直接金を出してくれる文化だけに生き残る資格があるとするのであれば、これらの美術館は全て消えるしかない。僕はそんな世の中に暮すのはまっぴら御免ですね。

文化の価値を需要でしか測らないような社会には、新しい芸術は生まれ得ない。芸術を学ぶ学生たちには、そういう認識をしっかり持った上で、たとえば自分の信じる良いものを残すにはどうしたらいいかとか、社会に芸術を根付かせるにはどうしたらいいかとか、それぞれの問題に取り組んでほしいと思います。