自然な感情/感情の自然状態
私が書いたのは感情であって理屈ではありません。私も理屈ではあらゆるテロに反対です。理屈では分かっていても感情はそれには従わないなんてことは当たり前でしょう。
私は、こういう感情が生じることを抑圧しようとする言論のほうに同意できません。
どうしてこういう感情が生まれるのかを考察するところから始めなければなりません。
ある人々にそういう感情が現に生まれていることを認識し、その背景を考察することは必要でしょうが、そしてある程度共感することも場合によっては必要かもしれませんが、しかし考察のためにその同じ感情に飲み込まれてしまう必要はないのではないでしょうか。私達は、かつて「自然な感情」「当たり前の感覚」と考えられてきたことを、これまでいくつも乗り越えてきたのではないでしょうか。たとえば差別的な感情は、ある時代の人々には自然に発生していたかもしれませんが、今ではそういう感情は以前ほど野放しではないと思います。現にある感情が生まれるからといって、その生の感情を無批判に肯定してよいとは僕は思いません。そのように無批判に肯定された感情は、いわば「自然状態」にあると言えるんじゃないかと思います。政治や法によって人間社会の「自然状態」が克服されるとするならば、知性や想像力によって、そのような感情を支えている誤謬や偏狭や怨嗟を認識し、感情の「自然状態」を克服していくことだって(たとえわずかずつでも)できるんじゃないでしょうか。少なくとも僕はそういう希望を持っています。
以前「人権概念は自然には身につかない」というエントリを書いたときにも、ちょっと似たようなことを思っていたので、一言だけ。