集団的な記憶の抑圧


早く書こうと思っていたんですが、3/10 から一週間近くたってしまいました。
via: 村野瀬玲奈の秘書課広報室 東京大空襲63年目に、被害と加害の両方を思う

東京都が東京大空襲などの戦争体験談を撮影した計三百三十人分の証言ビデオが、活用されないまま倉庫で眠り続けている。撮影から約十年。証言者が亡くなりつつある中、公開のめどはまったく立っていない。


…もったいない。


このビデオ、記事によるとこんな経緯で現在にいたってるそうです。

証言ビデオは、東京都が空襲犠牲者追悼や都民の戦争体験継承のため建設を計画した「東京都平和祈念館」で公開しようと、一九九六−九九年度に撮影された。

祈念館は二〇〇一年に墨田区内にオープン予定だったが、日本の加害の歴史など展示内容をめぐり関係者の意見が対立。一部都議の反発から都議会に出された「展示内容について都議会の合意を得た上で建設すること」という付帯決議がネックとなり、建設計画は九九年から凍結。ビデオも宙に浮いてしまった。

担当者によれば「祈念館で公開するという条件で集めた証言ビデオなので、それ以外の目的には使えない」ということだそうです。


まず、こうした歴史的な証言を集めるビデオを公共的に作るにあたって、「祈念館で公開する」という形で条件を最も狭く設定してしまったことが何よりの失敗だったと指摘しておきたいです。そうせざるを得ない背景があったかどうかはわかりませんが、あまりに狭すぎます。関係者が多数になる動画の権利処理が面倒で手間のかかるものであることはよく知られているはずです。祈念館だけを対象としたのでは、祈念館がオープンできなかった場合、何らかの理由で(政治的、社会的、技術的など)祈念館で上映できなくなった場合、祈念館がオープンしたとしても将来閉鎖になった場合など、公開できなくなる可能性はいくらでも予想できます。はっきりいって、チョンボです。担当者はよく反省してもらいたいものです。


その上で、やはりこれは何とかして公開してもらいたい。難しいことなんか何もありゃしません。これから可能な限り許可を取りなおせばいいんです。それだけです。ドキュメンタリー作品ですから、それなりに制作記録だって残っているはずです。そこから、インタビューに応じてくれた人を一人一人わりだし、亡くなっている場合には遺族に連絡をとり、もう一度もっと公開しやすい条件で許可を取りなおすのです。280人ぶん、不可能な数字じゃありません。そりゃあ手間はかかります。またお金もかかります。だけど、そんなベラボーな金額にはならないでしょうし、その手間賃くらいの価値はあると思います。どうしても許可がとれなかった所は、当面はカットすればいいでしょう(もちろん捨てちゃダメです)。
どこで上映するか?どこだっていいに決まってるじゃないですか、そんなの。東京がダメなら広島でも長崎でも。もちろんネット上でもね。


さて、そうした実際的な問題とは別に気になるのは、「展示内容について都議会の合意を得た上で建設すること」という付帯決議がネックになって、展示の内容をめぐる対立が原因で建設が頓挫していること。ハコモノを作ること自体の是非はひとまず措くとして、あまりに政治的すぎます。祈念館はおそらく社会教育施設という性格をもつものでしょうから、政治による影響力は可能なかぎり抑制されるべきものだと思います。こんな付帯決議は、やはりおかしいというべきです。


記事によれば「加害の歴史」をめぐって意見が対立したようです。あまりにお決まりの展開という気がしますが、こうして、議会において、意見の対立があったこと自体、つまり「議論が行われた」という事実が、この施設を作るというような、というかむしろ、こうした記憶や証言と向きあう姿勢を抑圧することに対する正当化として作用してしまってはいないか、という気が何となくするのです。「その件についてはもう充分悩んだんだ、いいじゃないか、もう忘れよう」ということになってしまうのではないかと。修正主義的な欲望にとって都合の悪い、つまり「思い出すこと自体がつらい」加害の歴史から目をそむけたいがために、被害の歴史をも葬る結果になってしまう。議論があり対立があることが、忘れてはならないはずのことを「水に流す」ような結末を促してしまう。なんというか、ここにはある種の病理があるように思います。


しかし、つらい記憶というものは、まずそれと向きあわなければ、それを乗り越えることもできないし、そこから教訓を得ることもできないし、次世代に伝えることもできません。
この証言ビデオが何とか日の目を見ることを期待します。なろうことなら、加害の記憶と共に。