啓蒙の帰結としての野蛮
ホロコースト研究の中心的な成果というのは要すれば「大虐殺は野蛮が行なうのだとは限らず、むしろ啓蒙の帰結でもありうる」ということ、ホロコーストは狂人の所行ではなく極めて合理的に遂行されたものである、ということです(だから、ホロコーストを問題にすることは常に左派の自己批判を喚起せずにはいないのですが、そういうことは「気に入らない奴をヒトラー呼ばわり」で済まそうとする方々は知らないのでしょう)。
こういう認識があるかどうかで、
はてなブックマーク - 「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か - 過ぎ去ろうとしない過去
ホロコーストがこういう場面で引き合いに出されるのに納得するか、理解できないかの違いになってくるんではないかと思います。
アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』が書かれたとき、ホロコーストの全容はまだ明らかになっていませんでしたが、その序文にはこうあります。
じつのところ、われわれが胸に抱いていたのは、ほかでもない。何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか、という認識であった。
啓蒙された文明が野蛮へと復帰していく、という現実への認識が深く刻まれています。
ところで、先のブクマにこんなコメントがありましたが。
「トリアージは全体主義である」というのは、この方独自のものの見方なのか、それとも、いわゆる「左翼」と言われる方々に共通するものなのか、そこが知りたいですね。とても興味深い。
「トリアージは全体主義である」という要約はあまりに惨憺たる誤読としか言いようがありませんが、「ホロコーストが「有限な資源の「合目的的な最適配分」の追及」の一形態である、ということは「左翼と言われる方々」には馴染みのある問題ではあるでしょう。