公共空間のプライバシーを選択する
さてローレンス・レッシグは『CODE VERSION 2.0』でのプライバシーに関する議論の中で、「人が公共の道にいたり飛行機に乗ったりしているときに、データを取られることに対してどんな保護があるだろうか?」と問い、伝統的な答えは保護は「まったくない」というものだ、とした上で、次のように言います。
だがこれまで何度も見てきたように、プライバシーの法がそれを保護しないからといって、保護がまったくないことにはならない。公共の場にいるときの各種事実は、法的には保護されていなくても、そうした事実を集めたり利用したりするコストの高さによって実質的に守られている。(p.281)
さらに、
小さな村でなら一挙一動がご近所に監視されるかもしれない。その監視は記録を作る ― ご近所の記憶の中に。だが記録技術の性質から、政府がその記録を検索するのはかなり高くつく。警官がご近所で聞き込みをしなくてはならない。必然的に不完全な証言を相互に参照することで、どこが事実でどこがそうでないか見きわめなければならない。(中略)だから原理的には、データはそこにあるが、実際には、引き出すには高くつく。
デジタル技術はこのバランスを変える ― 大幅に。(pp.282-283)
と述べています。
レッシグの議論は Google ストリートビューを想定しているわけではありませんが、デジタル技術時代の公共空間におけるプライバシーという問題について考慮すべき点であることは間違いありません。伝統的には「公共空間ではプライバシーは存在しない」とみなして問題なかったかもしれませんが、技術環境が大きく変化した後でも、そうした従来の考えのままで良いのかどうか、選択しなければなりません。ストリートビューに対する懸念を「自意識過剰」であるとか「技術の価値を理解できていない」と考えるのは、イノベーションが社会にもたらすインパクトを捉えそこなっていると僕は思います。
よく見てみると、現在のストリートビューに大きな問題はないと考える人々でも、通行人の顔にボカシを入れるという Google の「配慮」を望ましいと考える人は多いようです。また削除申請の手続きが用意されていることを評価する人も多いでしょう。ストリートビューは何も保護せずに公共空間のすべてを取り込んでいるわけではなく、少しは保護があるわけです。こうした「配慮」を評価する人々は、実は「公共空間にプライバシー保護などまったく不要である」と考えているわけではなく、それには何がしかの価値があり、少なくとも何らかの保護手段があることは望ましいと考えているのだと思います。
弱い保護でよい <<<<<<<<< 現在のストリートビュー <<<<<<<<< 強力な保護が必要
つまり「平気だ」という人は現在ストリートビューが実現している程度の保護ですでに充分と考えており、僕のように「気持ち悪い」と考える人はもっと強い保護が必要だと考えているわけです。「弱い保護でよい」のさらに先には「保護は完全に不要である」とか、むしろ「まったく保護すべきでない」という極端な考えがあるのでしょうが、プライバシーの価値を全否定する人はかなり少数でしょう。
逆に、プライバシーの保護をあまりに極端に強力なものにすれば、正しく指摘されているとおり表現の自由やその他の公共的な価値と衝突するでしょう。
つまり、とても単純な話になりますが、どうバランスするかが問題となるわけです。
幹線道路に限定するとか、住宅地区は外すとか、カメラの位置を人の目線に近づけるとか、撮影時に「まいど〜おなじみの〜グ〜グルでございます」と流すとか、もっと人間が写らないようにするとか、表札を見えないようにするとか、現在よりも保護を強くする手段はいろいろあるわけです。あるいは個人が自分自身の価値観に基づいて情報をコントロールできるようにしなければならないという考えかたもあるでしょう。どこかで折り合いをつけるのか、折り合いがつかなかったときにはカナダのようにサービスを中止させるのか、それとも今の程度でよしとするのか、それを選択しなければなりません。
したがって、いまやこう問われるべきです。すなわち「それを選択するのは誰か?」
少なくとも僕は、Google にお任せしたいとは思いません。また Google による選択をあたかも不可避なものであるかのように黙って受け入れたいとも思いません。
ストリートビューの議論と完全に重なるわけではありませんが、レッシグは、プライバシー保護に必要なアーキテクチャをサイバー空間に組み込むべきだと述べた後で、やはりそれを「後押しするものはなんだ?」と問います。
市場じゃない。商業の力は、そんな変化をどれ一つとして後押しなんかしない。ここでは、見えざる手は本当に見えない。アーキテクチャをこの目標に対して曲げるには、集合的な行動をとる必要がある。そしてまさに集合的な行動のために、政治ってものがあるのだ。自由放任主義じゃあどうにもなりませんぞ。(p.324)
- 作者: ローレンス・レッシグ,Lawrence Lessig,山形浩生
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