無戸籍とパスポート
外務省にパスポート(旅券)の発給を申請していた滋賀県在住の無戸籍の女子高生が、旅券に記載されるのが母親の前夫の姓であることを理由に、取得を断念したことが分かった。
複数の事情が絡み合っていて、どこに問題があるのかわかりづらいので調べてみました。長くなっちゃいましたよ。
外務省
まず、外務省は
政府は、親の離婚と子どもの出生時期をめぐる民法の規定が原因で無戸籍に陥った場合でも、6月から条件付きでパスポート(旅券)を発給することを決めた。
ということで、無戸籍の人にも条件つきでパスポートを発給することに決めています。ですので、戸籍がなければパスポートは発給されない、という事態はすでに解消されています。ただし条件があって、
つまりは、現行の旅券法のままでも発給できるように、ある意味で一時的な措置として発給できるようにするということなのだろうと思います。外務省的には、これらの条件をクリアせずにパスポートを発給できるようにするためには、旅券法が改正されるしかないということになりそうです。
で、今回の報道で問題になっているのは 2 の「民法が規定する姓の記載」という条件です。これについて、外務省は今回の省令改正に関わるパブリックコメントの結果のレポートの中で次のように言っています。
提出された意見の内、「法律上の氏」ではなく、申請者が現在使用している通称、住民票に記載されている氏等にすべきとの意見が最も多かったが、子の氏は、法令に基づき定まるもので、旅券には民法第790条の規定に従う氏を記載せざるを得ないというのが当省の考え方である。
「法律上の氏」ですが、今回の高校生の場合、住民票や健康保険証などにも現在の姓が使われているようです(引用中の「坂上クミ」は仮名)。
しかし、クミさんは、坂上クミとして住民票や学生証が作成され、社会的に生活してきました。
しかし外務省の言い分としては、先のパブコメの添付資料の PDF にあるように、
しかし、本来住民票に記載される氏は戸籍の記載に基づくものでなければならず(住民基本台帳法施行令第12条第2項参照)、戸籍に記載される氏は、当然民法の規定に定められた氏とならなければなりません。したがって、住民票に記載されている氏が民法の規定どおりの氏でない場合には、これを旅券上に記載することはできません。
というわけで、それは住民票のほうがおかしいのだ、という立場になるようです。が、その後に
今回の改正は、(1)家庭内暴力(DV)などやむを得ない事情に起因して適法な出生届をなし得ず、そのために戸籍に記載のない方々が存在するとの現状があること、(2)そのような方々から、戸籍に記載される前において、海外渡航が必要であるとして、旅券の申請が相次いだことを踏まえて行おうとするものです。
とあり、また「戸籍に記載がなくとも日本国籍を有するということは実際にありうる」、つまり現に戸籍が存在することが国籍の確認のための唯一絶対の条件ではないとの考えも示しています(無戸籍状態の解消に向かっている必要があると言ってはいますが)。僕などは、そこまで理解があるのであれば、もっと柔軟な対応をしてもよいのではないか、とも思います。なにも民法を改正せよと言ってるわけじゃないんだし。しかしまあ、地方自治体が住民票を扱うのとくらべて外務省がより民法に厳密に従わなければならない、という考え方も理解できなくはありません。
民法772条
いわゆる「300日規定」を定めているのが民法772条で、前夫との親子関係がないことが確定しないかぎりは、離婚後300日以内に生まれた子どもは前夫の子と推定するというものです。これについてはすでに色々議論されているとおりです。
今回の高校生の場合、DVによって別れた前夫との離婚が遅れたために無戸籍という状態になっています。で、前夫との親子関係が法律上は確定していない(後述)ので、パスポートには推定によって前夫の姓が記載されるということになるわけです。この高校生にとっては、生涯を通じて使ったことのない姓であり、また自分の母親を苦しめた人間の姓を自分の公的な姓として受け入れることはできない、というわけで、そういう感情を抱くのは僕には十分理解できます。そりゃあそうでしょう。何も好き勝手な名前を使わせろなどとゴネているわけではなく、これまで公私にわたって使ってきた自分の名前を使えないのはおかしい、と言っているだけなのですから。
では前夫との親子関係がないことが確認されればよい、ということになるわけですが、ここにも問題があります。具体的には、前夫が「嫡出否認の訴え」(夫が子の出生を知ったときから1年以内)を出すか、母親や子が「親子関係不存在確認の訴え」を出すかして裁判を起こすしかありません。
「親子関係不存在確認の訴え」は、子の代理人として母が前夫を相手に「親子ではない」と訴えるものです。この場合、前夫の証言やDNA鑑定が重要視されます。親子でないことが認められると、戸籍は「嫡出否認の訴え」と同様に扱われます。ただし、出生届出前においては、審判書を添えて出生届をし、戸籍の父欄は空白とされます。
このように現制度上、前夫の協力なくしては戸籍の手続を進めることができません。そのため、戸籍がない状態になっている人もおり、社会問題となっています。一刻も早い改正が望まれます。
というわけで、「親子関係不存在確認の訴え」の場合には、前夫の協力が必要とされるようです。DVが原因である離婚などの場合には、この点がかなり高いハードルになっているようです。そりゃそうだわな。
あとこちらも参照。
5.今の夫の子とするためには、前夫の協力を得て裁判をしなければならない。つまり、「今の夫の子」として戸籍に登録するためには、前夫に「親子関係はない」と裁判で証言してもらうことが原則として必要となる。離婚した前夫に法廷などでの証言を求めるのに膨大なエネルギーがいり、比較的良好な関係でも当事者たちは強いる負担は大きい。
6.多発しているDVの現状から、前夫に持ち込むと、居場所が前夫に分かり、再び暴力やストーカーの被害をおけるおそれが生まれる。「暴力の悪夢を忘れたい」と前夫との再会を拒む女性は多く、それは十分に理解される。
…というわけで、外務省がもうちっと柔軟な対応をするか、DVなどの事情がある場合に親子関係の確定が当事者にとってあまりに負担の大きい現行の制度を改めるか、いずれかが可能であれば例の高校生も修学旅行にいくことができた、ということになりそうです。
おまけ
麻生外相の「偽造パスポート発言」は、当事者の感情に対してあまりに配慮が欠けていると思います。これまで住民票その他で使ってきた名前で「偽造」になるなら、それらの住民票も偽造と言っているようなものです。高校生が「私の名前も偽造なのか」と憤慨するのも尤もだと思います。
それと、どういうわけか高校生の「血縁上の父」と「母の現在の夫」が別人である、つまり母が2度離婚したかのような発言がネット上に散見されますが、朝日の記事に
本人が希望していた血縁上の父親の姓の記載はかなわない。
とあり、別の記事では
女子生徒は、母親の離婚の理由が前夫の暴力だったことから、再婚後の父親の姓で旅券を発給するよう麻生太郎外相に直接要請していた。
という言い方がされているので、これらの報道に誤認がないのであれば「血縁上の父」と「母の現在の夫」は同一人物なのではないかと思うのですが…。
まあそれはそれとして、今回も事情を無視して叩く人が。特に母親を悪く言う人が結構いるのが私には不可解ですよ。貞操観念とかって、何の話をしてるんだろ、て感じ。