運の良さを噛み締めて


格差社会」の問題を、それによって追いつめられている人が言うと、すぐに「そうやって社会のせいにしてるからダメなんだ」と言う人が現われる。あまつさえ「お前らが苦しんでるのは、お前ら自身が足を引っ張りあってるからだ」とさえ言う。こう言いながら、たぶんその人は、自分が問題をすり替えてることに気づいていない。格差社会の問題は、苦しんでいる人の一人一人がそれぞれ「勝てばいい」という話じゃないのだ。勝ちたいんだけどどうすればいい?という話じゃないのだ。もし、問題のすりかえに気づいているなら、きっとその人にとっては「勝ちたい人が勝つ」ことが本来的な重要な問題で、つねに一定の弱者が存在するということは、別にどうでもいいのだろう。ギゾーよろしく、「金持ちになりたまえ」というわけだ。


友人が苦しい、這い上がりたい、と言ってきたら、僕だって似たようなことを言うだろう。勉強しろ。自分の価値を高めろ。決断しろ。戦略を練れ。頑張れ。頑張りすぎるな。逃げろ。逃げるな…誰だってそんなふうに言うだろう。僕だってそう言う。リッチでマッチョな奴だって、同じだ。つまり「俺は助けてやれないから、自分でなんとかしてくれ」ということだよ。「そこで待ってろ、今助けに行く」なんて、赤の他人に言えることではないものね。人によって違うのは、どうやってなんとかするかっていうメソッドの部分だけだ。そりゃそうだ。助けてなんてやれないもの。アドバイスなんて、誰でも似たようなことしか言えないよ。


だけれども「金持ちになりたまえ」という人々は、そう言うことによって、「俺は悪くない」とも言っているのだ。「俺のせいじゃない」。だから「社会のせいにしてもしかたがない」と言い、「犯人探しになど意味はない」と言う。でもそれは嘘だ。この社会の成員である以上、僕達には責任があるし、犯人はいる。特定の誰かではないかもしれないし、場合によっちゃ人間ですらないかもしれないけどね。だから、犯人を探したところで「今すぐ」問題が解決するわけじゃないというのは正しいが、「意味がない」というのは欺瞞だ。僕達は、絶対に「犯人探し」をするべきなのだ。そうしなければ、「社会」の問題は解決しない。そして「社会」の問題に対して、常に、最もラディカルな、追求の原動力となったのは、「ウィンプ」たちだったはずだ。考えなきゃいけないのは、「足の引っ張りあい」をやらせてるのは誰かってことだ。それで得してるのは誰かってことだ。


成功した人々は、自分の力でそうしたと信じたいものだ。それはよくわかる。今の自分があるのは、自分が何にもくじけることなく頑張ったからだ、と思いたいものね。そしてその感覚は、自分の得ている地位や利益や力に対して、それが「正当なもの」だという信念をもたらす。自分が金持ちなのは、頑張ったからだ。そう思いたいのだ。
だから彼らは、自分がどれほど運が良かったのかを、都合よく忘れようとする。現代の日本に生まれてツイてた。障害がなくてツイてた。教育を受けられてツイてた。才能があってツイてた。あの時あの人に出会えてツイてた…。よく考えてみれば、今の自分があるために、努力なんかよりもよっぽど沢山の運に支えられているはずなんだ。努力したのはわかる。そうだろう。人一倍したんだろう。それはとても意味のあることだ。でも、「人一倍の努力」が実を結ぶためには、運が決定的な役割を果たすってこともまた、認めるべきなんだ。そう思えば、今の自分が持っているものを「当然のこと」とは言いきれないんじゃないかと思う。そしてそのとき、自分がたまたまそれを得ることができた事に対して、責任を感じるはずだと思う。少なくとも、僕は感じてる。成功者からはほど遠い小市民だけれども。


成功したリッチでマッチョな人たちには、もっと自分の運の良さを認める勇気を持ってほしいと思う。