左翼、右翼、保守主義者


について、稲葉振一朗『公共性論』に面白いアナロジーがあったのでご紹介。ちょっと長めの引用ですが。

(…)左翼は基本的には、凶兆や福音を告げる預言者として現われる、とイメージしたほうがよいでしょう。となれば無神論者よりもその前提たる唯一神教徒こそが左翼のモデルにふさわしい、ということになります。(…)

 大雑把に言えば、使徒たる左翼の福音に触れた者は、自らもまた左翼として同道者となるか、懐疑的な保守主義者となるか、あるいは反動形成して右翼となるか、のいずれかでしょう。その結果は左翼の福音戦略の巧拙にはもちろん、福音に触れる側の態度によっても、またその他人々の努力ではどうにもならない環境要因にも規定されるはずです。(…)

 ということでアナロジーを整理しますと、普通の土着宗教は本書の用語法で言えば素朴な共同性であり、唯一神教無神論とが公共性の地平で勝負を繰り広げているわけです。右翼とは公共性へと誘う啓蒙の暴力に逆ギレ、反動形成して、共同性に回帰しようとする志向であることは明らかですが、左翼と保守主義の関係は、こちらを唯一神教、あちらを無神論、ときれいに振り分けるわけにはいきません。どちらがどちらに対応するか、は多分に状況に左右される、と言わざるをえないでしょう。しかしどちらかと言えば、頑固に唯一神教的立場に固執するものが左翼に、無神論─というより不可知論を選ぶ者が保守主義者になる、という傾向を想定できるのではないでしょうか。既存の「公共性」を疑い、さりとて共同性に撤退することも拒み、新たなより高次の─あるいは「真の」公共性を樹立することを目指すのが左翼だとすれば、そのような「真の公共性」の実現可能性、それどころかそのようなものの存在可能性それ自体に懐疑的な慎重居士が、保守主義者であるわけです。(pp.333-334)


引用部分の前のほうで、稲葉は田島正樹の「左翼と右翼の対立は、単にそれぞれの主張内容の違いによるのではなく、対立があると言う者と、対立がないと言う者との間の対立」という議論を紹介して、左翼と右翼が対称的ではないことを示唆します。ここでは、政治的共同体の内部に分裂や対立が潜在的に内包されていると見るのが左翼、それに対して共同体自身は本来は分裂を含まない統一体で、危機は外にいる外敵によってもたらされると考えるのが右翼、ということになります。こうして、田島の言うには「したがって、左翼と右翼が対立していると見る見方は、実はもっぱら左翼の見方であり、右翼は自分を右翼とは認めない。彼らは、自らを国民の立場、または中道を主張するのであり、国民は本来、みな和して一体であり、それでもあえて対立する者たちは、敵にそそのかされ、操られた非国民と見なすのである」ということになるんだそうです(p.323あたり)。なんか妙にしっくりくるなぁ。
で、左翼と認識論的に同じレベルで対立する立場として「保守主義者」が考えられるという話になるんですね。


えーと、こういう左翼云々の議論だけでなく、やたらと広い範囲の様々な議論を参照して長々と辿られる「公共性」をめぐる話もとても興味深いものでした。読みやすいし、おすすめです。

「公共性」論

「公共性」論