デマと訂正情報

Togetter - まとめ「ザイール大使館員付き添い付きで子ども手当請求きたRT」


このデマを根拠に批判的なコメントをつけたり「予想通り」「いわんこっちゃない」的なコメントをつけていたアカウントを20個ほど適当に選んで、その後の発言を調べてみました。やり方は、そのアカウントのtwitterページを普通に開いて「もっと読む」を出していき、上記のまとめページでのツイートが表示されるまで辿ります。その状態でブラウザのページ内検索で「ザイール」を検索。


結果、適当に選んだ20アカウントのうち、訂正情報に言及していたのは1人だけでした。


もちろん「ザイール」という言葉を使わずに訂正情報に言及したという可能性もなくはありませんが、固有名詞抜きで「釣られた」などと発言しているだけだとしたら訂正の意味はほとんどないでしょう。サンプルが少ないかもしれませんが、考えさせられます。

特段の悪意もなく「なんとなく RT しただけ」という人がかなりの割合であろうことは予想できます。しかし問題は、訂正情報が同じ人達によって RT されまくるというようなことは起きていないということです。デマはただ流れて、流れっぱなし。デマを RT した人達の中にどのくらいデマだと後で認識した人がいるのかもよくわかりませんが、いたとしてもそれをわざわざ再度流すということをしていないわけです。おそらく、自分達が流言飛語の拡散の「片棒を担いでいる」という認識ももっていないのではないかと思います。

デマに比べて、その訂正情報は口コミに乗りにくいんですね。

イタリアの「岩に刺さった剣」の科学的調査


はてなブックマーク - 「岩に突き刺さった剣」はイタリアに実在する - GIGAZINE

面白い話ですね。検索したら、ここを調査したパヴィア大学の Luigi Garlaschelli が Skeptical Inquirer に2006年に書いた記事というか論文が。図版が入ってなくて残念なんですが、こちらで PDF が読めます。

http://fulvio.fulleri.googlepages.com/GarlaschelliRealSword_.pdf

Luigi Garlaschelli という人は CICAP(the Italian Committee for the Investigation of Claims on the Paranormal) のメンバーらしくて、つまり超常現象を科学的に調査したりしてるようです。それで歴史学の雑誌じゃなくて Skeptical Inquirer のが出てくるのか。

そいでその論文を読んでみると、剣そのものについては、様式的にも12世紀ごろのもので、金属の組成(周辺から磁石で集めたものを分析)も近代のものでないことがわかったそうで。また、文書や絵画から、おそくとも1270年には刺さってたらしいとのこと。


で、それはいいんだけど、

In the 1960s, an unknown person broke the blade in an attempt to remove the sword from the stone. The broken part was then fixed back into place with concrete, and a second layer was later added to match the color of the rock. On March 21, 1991, the sword was pulled out once again by a vandal (soon captured by the police) and was fixed back.

というわけで、抜こうとした人のせいで途中で折れちゃってるんだそうです。残念…。あと、

In 1832 they were protected by a metal cage or grating, still there in 1924.An eyewitness (born in 1915) has reported to us that in those years the sword could actually be pulled out from the crack into which had been pushed. In that same year molten lead was poured into the slit to jam the blade, and the metal cage was removed.

というわけで、もしこの証言どおりだとするなら、過去には抜くことができていたのを20世紀になってから固定したことになりますね。そうかぁー。

なんというか、これで「ロマンが台無し」と感じる人もいるんでしょうけれども、それはそれとして、僕はこれはとても魅力的なモノだと思いますけどね。

「仕方ない」と言う奴が世の中を変えたためしはない


「現実には襲われるリスクがあるんだから、自衛しなくちゃ仕方がないじゃないか」


本人は「あたりまえの常識」を言ってるだけのつもり、なのに何故「常識」が批判されるのかわからない*1。だけど「常識」こそ厳しい批判が向けられるべきなのよ。とりわけ、その「常識」が差別を温存するものならば。


この「常識」がクソなのは、そもそも防犯としての効果がひどく限定的であること(派手だからといって襲われるわけではない、性犯罪は顔見知りが加害者であることが多い)に加えて、


犯罪を不可避的な、自然な出来事(男はケモノ)のように見せかけること、

それによって女性に「自衛」を求め、自由を奪う(ミニスカなり夜間外出なり)ことを正当化していること、

すなわち差別を自然化していること、

その「常識」の蔓延によって、被害者が傷つきつづけること、

犯罪者の責任を軽く考えたがる人々に口実を与えること、


などなど。差別だとしても身を守るためには仕方ない、それは差別かもしれないが、俺のせいじゃない、というわけ。

そして「常識を説くことの何がいけないのか」という人々が徹頭徹尾目をそむけているのは、性差別が軽減されることによって性犯罪を減らすことができるかもしれない、という点だ。そりゃそうだ、この人たちは「差別があるのは仕方がない」と思っているんだもの。だから、どれだけ「レイプは顔見知りによる犯行が多い」という話が出てきても、いつまでたっても「夜道を一人歩きしてて襲われる」を典型的なケースとして描き出したがる。だけどデートレイプの加害者は「あいつが誘ったんだ」「結果を期待してる服装だ」「拒絶しなかった」「強引なくらいがいいんだ」「男とはそういうものだ」「本当に嫌なら最初から2人きりにならないはず」「自衛しなかったんだ」「いやよいやよも好きのうち」「女とはそういうものだ」と考えてることだろうよ。差別が犯罪を助長してるんだよ。


あんたのその「常識」が支えてるのは、そういう社会なんだよ。だから「ボクの考えた自衛手段」でどや顔なんかしてないで、差別を無くそうって本気で思ってくれよ。思うだけでもいいから、せめて「差別があるのは仕方がない」なんて言わないでくれ。

*1:それにしても、自衛しなくていいなんて話は誰もしてないのに、あさっての方を向いてどや顔してる気の毒な誤読者には失笑を禁じえない

性犯罪で「自衛」を語る人って


本人的には本当に犯罪が減ってほしいのかもしれないけど、だったら毎度毎度「自衛」― 陰に陽に被害者の「責任」をもちだす ― なんか訴えるより、例えば女子差別撤廃条約の選択議定書批准を訴えるとかすりゃあいいのにな、と思う。まあ、そういう人達は「国連に助けを求めるほどの女性差別は今はない」とか思ってそうだけど。

事業仕分けの感想


今日で最終日となった行政刷新会議事業仕分けですが、いくつか感想を。

基本的には評価します

公開の場で予算の無駄を洗い出す作業、というのはやはり画期的なことだと思います。天下り団体などについても、どこにどんなものがあるのか、かなり具体的なイメージがつかめたように思いますし。関係者からも、批判を含めいろいろな意見が出てきましたから、しっかり国民的な議論を深めるという意味では相当な前進だと思います。

マスコミの伝えかた

「○○は見直し」「××大幅縮減」「△事業を廃止」などの見出しや、短い新聞記事などでは、どうしても結論にばかり目がいきがちです。しかし実際の議論や資料を見てみれば、「縮減」といってもその事業が重要でないから、というよりも、非効率な予算の使い方が指摘されていることが多いように思います。科学未来館などが典型だと思いますが、不必要に財団が挟まってるからそこは削れるよね、というような話が単に「縮減」と伝えられてしまう。もしこの調子で予算編成の際に結論だけ一人歩きするようなことがあれば、かなり悲惨な事態になることは間違いないと思うので、そのあたりは慎重に見ておかなければならないと思います。

結論の出しかた

しかし、そういう風に伝えられてしまうのは、テレビなどでも何度も写されてたあのホワイトボードに次々書きだされていく「縮減」「廃止」の文字がもつインパクトゆえでしょう。「見直し」といったときにどこを見直すのか、「縮減」といったときにどこを縮減するのか、そういう本当に大事な議論の部分がブッとんでしまう。私はあれはインパクトだけはあるけど、あまりよろしくないと思います。

と同時に、「事業のあり方を見直すべき」とか「戦略を再構築するべき」といった指摘が一番重要と思われるような案件で、なぜ「予算縮減」という結論を出す必要があるのか。これはかなり疑問です。効果がわかりづらいとか、検証が不足しているとかいう指摘はもっともな場合もありますが、なんで縮減する必要があるの?足りないところをしっかりやらせれば済む話ではないの?という疑問は拭えません。

個別の事業より、単年度の縛りを見直してくれ

いくつか指摘されているのを見ましたが、実際の現場では例えば「年度内に使いきらなきゃ」というような話はゴロゴロしてるわけですよね。皆それなりに無駄にならないように知恵をしぼっているものと思いますが、それでもこういう単年度の縛りが無駄の温床となり、効率的な予算の使い方の妨げになっていることは多くの人が認めるところだと思います。

今年予算を余らせると、来年は減っちゃうから。これ常識。誰もがおかしいと思いつつも、これが常識になっちゃってるわけですよ。それで結局、使うほうにしかインセンティブが働いていないわけです。こういう制度設計を本気でどうにかしないと、いつまでたっても「呼び出して小突きまわす」方法だけが無駄を削る手法になってしまう。それは不幸だ。

また、これが「今年はちょっとグダグダになっちゃってて、立て直ししなくちゃいけないんだけど、その間もとりあえず理屈をつけて予算消化しとかないと後で復活とかできないから、ムリヤリでも大丈夫だって言っとかないと」みたいなことに繋がるわけでしょう?スパコンって、要はそういう話だと思うんですけどね。

「とりあえず予算取っとけ」なんてしなくても、本当に必要なときにはちゃんと金は出る、そう皆が信じられるだけで全然違うと思うよ。

官僚が説明責任を負うのは変

だってさー、政府の事業は政治が作ってきたことでしょう?少なくともタテマエは。そんで何とか審議会とかやってきたわけじゃん。予算だって国会で通してきたわけじゃん。だから形式的には政治の側に説明責任があるんじゃないの?確かにとりまとめて実施してるのは官僚で、彼らが「要求」してくるわけだから説明を求めるのはわからないじゃないんだけど、根本的にはその構図はおかしいと思う。

今までの予算折衝だって、事業をやってる現場が予算ほしいってことで所管の省庁に出して、そこが財務省と折衝してたわけですけど。でも官僚たちいくら東大出で頭よくて超働いてて勉強してるっていってもさ、やっぱり素人なんですよ彼ら。専門家では全然ないのよ。人事移動でコロコロ担当変わっちゃうし。だから無責任になるってケースもよくあるし。だから、どうしたって現場の切実さとか、その事業の本当の本当に重要な価値とか、ハラの底から理解してるわけじゃないのよね。そういう仕組みじゃないんだもの。

これまでもそうやって素人が素人に説明して予算折衝してたわけだけど、せっかく政治主導で公開でやるんだったら、もっと現場の声を聞いたらいいと思う。正直、現場の人達は、自分達のところに天下り法人が途中に挟まってるのを苦々しく思ってるハズ。現場の人と協力したほうが、もっと良い結論が出せると思う。セレモニー的な「視察」じゃなくて、予算絡みのもっとナマナマしい議論を政治家と各分野の専門家がやりあったらいいんじゃないかなー。大変だと思うけど、そのほうが健全じゃない?



もし来年もやるんだったら、こういう点が改善されるといいなーと思うのでした。

事業仕分けは詳細な議事録を作成するべき


この種の議論が公開されたことは非常に高く評価しています。結論についても、首肯できるものもある。マスコミの伝えかたの問題と、あとは事業を選ぶよりも予算を効率的に使うインセンティブの設計をやらんと本質的には変わらないだろうな、というのがとりあえずの感想。


が、それはそれとして。いくつか音声だけ議論を聴いたのだけど、ひでえな、という発言がかなりある。行政刷新会議は是非詳細な議事録を作成してもらいたいです。誰がどんな発言をしたのか、きちんと記録を作って全て公開し、それによって仕分け人一人一人の発言もまた国民の評価を受けるべきだと思います。忘れないからね。

ルールはルールだから教


どーもこーいう話にはカッチーンときてしまう。

はてなブックマーク - 玻南ちゃんダメ?…名前受理されず、最高裁へ : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)


子が無戸籍状態になってしまっているのを「親の我侭のせい」というその発想。これがムカついてしょうがない。なんで市民の側だけに責任を押し付けるんだよ。100歩譲っても半分は行政/司法の責任でしょうが。戸籍名はカナ書きにしとけばいいとか、別の名前にすればいいとか、そんなことはわかっててやってるんだろうよ。私にはその拘りそのものに直接共感できるわけではないけれど。でもそこで「子どものためには親が譲歩するべき」って、どうして自動的にそうなるんだ?なんで「子どものためには行政/司法が譲歩するべき」ってならないの?本来、もっと柔軟に対応できるのに、市民の幸福を無視してナンセンスな決まり事に拘ってるわけですよ。

 これ以外の文字でも常用平易と認められれば、家裁が出生届の受理を命じることが出来るため、両親は名古屋家裁に審判の申し立てを行ったが、1月に却下。即時抗告した両親は「玻を知らなくても、波や破などから類推して読むことは容易で、パソコンや携帯電話で容易に漢字変換できる。インターネットで検索すると、使用可能な漢字のヒット件数と比べ、玻の件数は上位に入る」と主張した。

 しかし同高裁は10月27日、「玻が名前として使われているのは、芸名やペンネームなどの例に過ぎず、新聞などで多用されているとは認められない」と指摘し、「明らかに常用平易と認められない以上、戸籍上で使えないことはやむを得ない」と判断した。


過去には認められた例だってある。

 過去には、家裁が人名漢字になかった「琉」「曽」の字の受理を役所に命じたこともある。夫婦は「玻」が地名や名字にも使われていること、画数も少ないこと、「玻璃」(水晶、ガラス)として児童書などにも使われていることも調べて証拠提出したが、名古屋家裁、高裁とも主張を認めなかった。


ルールだから従うしかない?この両親だってルールに従って異議申立てしてるのですよ?既存のルールに文句一つ言わずにただただ従うのが市民の正しい生き方と思うなら、選挙にだって行く必要ないんじゃね?