はてなブログに移行しました

なんかほら、はてなダイアリー終わるっていうので。なんとなく。いま移行しながら書いてます。

最後の記事、2010年なんですよねー。ほぼ8年間、ダイアリーに記事を書かなかったんですなぁ。一時期は結構書いてたのにね。いくつかはブクマが集まったりした記事もありましたね。自分の記事についたブクマは読まないことにしてるんですけど。ブクマの方は細々と続けてて、自分は好き勝手コメントしてますけどね。
また何か書こうかなー、という気分にならないでもないんですが、あんまり世の中のことを心配したり怒ったりしてるのも疲れるしなー、っていうのもあり。まあ8年ぶん歳とった、ってことでもあります。で、この間、個人的にもいろいろな変化はあったわけです。たとえば、

 

ハゲた
着実に薄くなりました。あまりうれしくはありませんが、まあもうしょうがないよね。不思議なもので、あんまり抵抗しなかったかなぁ。ときおり自分に「お前、そんなとこでカッコつけてもハゲてるんだぜ。思い出せよ」と言うことがあります。悲しいといえば悲しい。でもしょうがないです。こういう「しょうがなさ」に慣れてくる、というのも歳をとったってことだと思います。

太った
油断すると脂肪が増えるようになりました。それだけ代謝が落ちてるんでしょう。しかしこちらはかなり抵抗があって、というのも自分は若いときからずっと痩せていて、その「痩せている自分」というのはアイデンティティの一部になってるんですよね。だからダイエットしてます。ちゃんとやればちゃんとコントロールできるし、手段として運動もしていて、それは健康にもいいので続けてます。

老眼
もう年寄りの辛い話ばっかり続くな。でも聞いてくださいよ(聞かなくてもいいけど)。これもですね、僕はずっと裸眼erで、いまだって視力はいいんです。こないだ受けた人間ドック(!)でも両方1.5だったんだからね!ちょっと「当てに行った」感がなくもないけどね!でももう近くが見えないんよねー。あーあ、メガネつくらなきゃなー。

そのほか辛いこと
生きていればそれだけ悲しいこともあります。

子ども
ダイアリーを書いていなかった間に子どもが生まれて、育ってます。僕にとっては人生で一番インパクトの大きな出来事でした。

 

…とかとか。

仕事は変わっていませんが、少しずつ立場が変わってきました。ありがたいことに収入も安定しています。僕は相変わらずリベラルな政策を支持しています。でも、たとえば以前は再分配を強化するような政策が実現すると自分にとってたぶん得になったでしょうが、今はおそらく逆です。そんなわけで、自分個人の生活のためには、いろいろな制度を利用していますが、必ずしも公平と思えるようなものばかりではありません。でもねー、だからって使わないでいられるほど強くもないんだよねー。

 

ああ、インポートが終わってた。やっぱり怒ってる記事多いな―。これの続きやるの嫌だなー。どうしよう。まあ後で考えるか。

とりあえず、移行しました。作業はとってもカンタンでしたよ!

選択的夫婦別姓に反対する人の気持ちを想像する


もちろん勝手な想像にすぎないことは承知していますが。
Togetter - 「夫婦別姓に関するynabe39とその他のユーザーのツイート」
こういうのを読むと、なんとなく反対派の定型的な反応から、「考え」じゃなくて「気持ち」が想像できるような気がしてきたので。


たとえば「別姓のメリットって何?」としつこく聞く人が結構いるのですが、すでに相当いろいろな形で説明されていて、知ろうとすればすぐわかるのです。べつに知りたいと思っていなくて、納得していないことを表示するだけの質問なのだと思います。あるいは「それは知っているが、納得できない」と続く場合もありますが、メリットがあることは知っているのに「何?」と何度もくりかえすのは、やはりメリット自体には別に興味がないんだろうと思うのです。


あるいは、「選択」と「強要」の混同。これはよく転倒した議論が見られるところです。反対派によくあるのは「賛成派は選択の自由を強制しようとしている」という主張。賛成派からは死ぬほど奇妙に見えますが、たぶん本気です。姓について「自由のある社会」と「自由のない社会」のうち、賛成派は「自由のある社会」を求めています。しかし反対派は「自由のない社会」を求めているわけです。「自由のある社会」が嫌なのです。反対派からすれば、自分は自由のない社会に住みたいのに、賛成派はそれを許さない、それは強制だ、ということになる。


自由のない社会を変えないでほしい、というのはどういうことでしょうか。僕は特に婚姻制度、いや「結婚」といったほうが適切でしょうか、結婚というものに対する感情というか気持ちが、この話が捻れやすいポイントのような気がしています。多くの人が、それぞれ内容は違うでしょうが、結婚というものについてイメージをもっています。ファンタジーといってもいい。それは例えば「部屋とYシャツと私」的世界だったりするかもしれません。で、そのなかには、「夫の名前に変わることを喜ぶ新妻」なんかもあったりする。こういうシチュエーションに象徴されるような、結婚に対する人々の考え、親戚や周囲の人との関係、それを支える法的制度、(疑似)伝統文化、そういった様々なものが全体として「あるべき婚姻制度のかたち」という、一つのファンタジーを形成しているのだと思います。そのファンタジーを壊してほしくないのではないでしょうか。みんなが、これまでと同じように、同じファンタジーを共有していてほしい。そしてもしそういったファンタジーの共有がなければ、社会的紐帯の全体が損なわれる、と恐れているのではないでしょうか。


もしそうだとすれば、やはり「社会にいろいろな違った人たちが共存していても、何も怖がることはないよ」ということを納得してもらうしかないのではないか、という気がしてきています。まあ、そうまでして「感情的」にも納得してもらう必要がどれだけあるか、というのは一方であるのですが。

砲撃に子どもは関係ないだろ子どもは!


これは、日本も批准している国際人権A規約の第十三条3項です(強調は引用者)。

この規約の締約国は、父母及び場合により法定保護者が、公の機関によって設置される学校以外の学校であって国によって定められ又は承認される最低限度の教育上の基準に適合するものを児童のために選択する自由並びに自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。


子どもとその保護者は、学校を選択する自由があり、私達の社会は、それを認めています。それなのに、朝鮮学校だけが無償化の対象とすべきか否かについて議論されてきました。きちんと認可を受けた学校として多年にわたって活動し、多くの大学もその卒業生を受け入れていることを考えれば、その他の各種学校やインターナショナルスクールと異なる扱いをするべき合理的な理由は何一つありません。まったく「法の下の平等」に反するものです。*1


こうしてただでさえ政府が大っぴらに差別的な政策を議論していた上に、今回の砲撃で、我が政府はさらに頭脳が混濁してきたようです。

 会見で高木文科相は、教育不問の適用判断について「教育的見地から、外交上の判断はしないと述べてきたが、しかし、そのうえでも考えなければならないかもしれない」と述べ、韓国砲撃を理由に見直す可能性に言及。
 無償化中止について明言はしなかったが、「重大な決断」について「いろんな意味を含んでいる」と述べ、選択肢に含まれていることを示唆した。


おまえら、頭おかしいんじゃねえの?


もうね、何と言っていいかわからんよ僕は。砲撃と何の関係があるんだよ、その子どもたちに?日本で生まれて日本で暮らしている子たちだよ。一緒に生きてきた子たちだよ。そしておそらく、これから大人になってもその多くが日本で暮らしていくだろう子たちだよ。その子どもたちに、一体何の咎があるっていうんだよ?イカレた北朝鮮の政権を彼らが選んだとでも言うわけ?その子たちから教育を奪い、日本政府が彼らを抑圧するという経験を強烈に植えつけて、政府は何を得ようとしているんだ?明日の支持率か?そんなことして上がると思ってるのか?俺たち国民はそんな差別主義者ばかりだとでも思ってるのか?馬鹿にすんのもいい加減にしろ!


朝鮮学校の生徒たちは、他の学校に通う日本やその他の国の子たちと同様、いやそれ以上に、今回の事態の推移を不安な気持で見つめていることだろうと思う。そんな子たちに、励ましや慰めの言葉をかけるどころか、さらなる抑圧とは!

こんな差別国家に暮らすのが、僕は恥ずかしいよ。

デマと訂正情報

Togetter - まとめ「ザイール大使館員付き添い付きで子ども手当請求きたRT」


このデマを根拠に批判的なコメントをつけたり「予想通り」「いわんこっちゃない」的なコメントをつけていたアカウントを20個ほど適当に選んで、その後の発言を調べてみました。やり方は、そのアカウントのtwitterページを普通に開いて「もっと読む」を出していき、上記のまとめページでのツイートが表示されるまで辿ります。その状態でブラウザのページ内検索で「ザイール」を検索。


結果、適当に選んだ20アカウントのうち、訂正情報に言及していたのは1人だけでした。


もちろん「ザイール」という言葉を使わずに訂正情報に言及したという可能性もなくはありませんが、固有名詞抜きで「釣られた」などと発言しているだけだとしたら訂正の意味はほとんどないでしょう。サンプルが少ないかもしれませんが、考えさせられます。

特段の悪意もなく「なんとなく RT しただけ」という人がかなりの割合であろうことは予想できます。しかし問題は、訂正情報が同じ人達によって RT されまくるというようなことは起きていないということです。デマはただ流れて、流れっぱなし。デマを RT した人達の中にどのくらいデマだと後で認識した人がいるのかもよくわかりませんが、いたとしてもそれをわざわざ再度流すということをしていないわけです。おそらく、自分達が流言飛語の拡散の「片棒を担いでいる」という認識ももっていないのではないかと思います。

デマに比べて、その訂正情報は口コミに乗りにくいんですね。

イタリアの「岩に刺さった剣」の科学的調査


はてなブックマーク - 「岩に突き刺さった剣」はイタリアに実在する - GIGAZINE

面白い話ですね。検索したら、ここを調査したパヴィア大学の Luigi Garlaschelli が Skeptical Inquirer に2006年に書いた記事というか論文が。図版が入ってなくて残念なんですが、こちらで PDF が読めます。

http://fulvio.fulleri.googlepages.com/GarlaschelliRealSword_.pdf

Luigi Garlaschelli という人は CICAP(the Italian Committee for the Investigation of Claims on the Paranormal) のメンバーらしくて、つまり超常現象を科学的に調査したりしてるようです。それで歴史学の雑誌じゃなくて Skeptical Inquirer のが出てくるのか。

そいでその論文を読んでみると、剣そのものについては、様式的にも12世紀ごろのもので、金属の組成(周辺から磁石で集めたものを分析)も近代のものでないことがわかったそうで。また、文書や絵画から、おそくとも1270年には刺さってたらしいとのこと。


で、それはいいんだけど、

In the 1960s, an unknown person broke the blade in an attempt to remove the sword from the stone. The broken part was then fixed back into place with concrete, and a second layer was later added to match the color of the rock. On March 21, 1991, the sword was pulled out once again by a vandal (soon captured by the police) and was fixed back.

というわけで、抜こうとした人のせいで途中で折れちゃってるんだそうです。残念…。あと、

In 1832 they were protected by a metal cage or grating, still there in 1924.An eyewitness (born in 1915) has reported to us that in those years the sword could actually be pulled out from the crack into which had been pushed. In that same year molten lead was poured into the slit to jam the blade, and the metal cage was removed.

というわけで、もしこの証言どおりだとするなら、過去には抜くことができていたのを20世紀になってから固定したことになりますね。そうかぁー。

なんというか、これで「ロマンが台無し」と感じる人もいるんでしょうけれども、それはそれとして、僕はこれはとても魅力的なモノだと思いますけどね。

「仕方ない」と言う奴が世の中を変えたためしはない


「現実には襲われるリスクがあるんだから、自衛しなくちゃ仕方がないじゃないか」


本人は「あたりまえの常識」を言ってるだけのつもり、なのに何故「常識」が批判されるのかわからない*1。だけど「常識」こそ厳しい批判が向けられるべきなのよ。とりわけ、その「常識」が差別を温存するものならば。


この「常識」がクソなのは、そもそも防犯としての効果がひどく限定的であること(派手だからといって襲われるわけではない、性犯罪は顔見知りが加害者であることが多い)に加えて、


犯罪を不可避的な、自然な出来事(男はケモノ)のように見せかけること、

それによって女性に「自衛」を求め、自由を奪う(ミニスカなり夜間外出なり)ことを正当化していること、

すなわち差別を自然化していること、

その「常識」の蔓延によって、被害者が傷つきつづけること、

犯罪者の責任を軽く考えたがる人々に口実を与えること、


などなど。差別だとしても身を守るためには仕方ない、それは差別かもしれないが、俺のせいじゃない、というわけ。

そして「常識を説くことの何がいけないのか」という人々が徹頭徹尾目をそむけているのは、性差別が軽減されることによって性犯罪を減らすことができるかもしれない、という点だ。そりゃそうだ、この人たちは「差別があるのは仕方がない」と思っているんだもの。だから、どれだけ「レイプは顔見知りによる犯行が多い」という話が出てきても、いつまでたっても「夜道を一人歩きしてて襲われる」を典型的なケースとして描き出したがる。だけどデートレイプの加害者は「あいつが誘ったんだ」「結果を期待してる服装だ」「拒絶しなかった」「強引なくらいがいいんだ」「男とはそういうものだ」「本当に嫌なら最初から2人きりにならないはず」「自衛しなかったんだ」「いやよいやよも好きのうち」「女とはそういうものだ」と考えてることだろうよ。差別が犯罪を助長してるんだよ。


あんたのその「常識」が支えてるのは、そういう社会なんだよ。だから「ボクの考えた自衛手段」でどや顔なんかしてないで、差別を無くそうって本気で思ってくれよ。思うだけでもいいから、せめて「差別があるのは仕方がない」なんて言わないでくれ。

*1:それにしても、自衛しなくていいなんて話は誰もしてないのに、あさっての方を向いてどや顔してる気の毒な誤読者には失笑を禁じえない

性犯罪で「自衛」を語る人って


本人的には本当に犯罪が減ってほしいのかもしれないけど、だったら毎度毎度「自衛」― 陰に陽に被害者の「責任」をもちだす ― なんか訴えるより、例えば女子差別撤廃条約の選択議定書批准を訴えるとかすりゃあいいのにな、と思う。まあ、そういう人達は「国連に助けを求めるほどの女性差別は今はない」とか思ってそうだけど。