選択的夫婦別姓に反対する人の気持ちを想像する


もちろん勝手な想像にすぎないことは承知していますが。
Togetter - 「夫婦別姓に関するynabe39とその他のユーザーのツイート」
こういうのを読むと、なんとなく反対派の定型的な反応から、「考え」じゃなくて「気持ち」が想像できるような気がしてきたので。


たとえば「別姓のメリットって何?」としつこく聞く人が結構いるのですが、すでに相当いろいろな形で説明されていて、知ろうとすればすぐわかるのです。べつに知りたいと思っていなくて、納得していないことを表示するだけの質問なのだと思います。あるいは「それは知っているが、納得できない」と続く場合もありますが、メリットがあることは知っているのに「何?」と何度もくりかえすのは、やはりメリット自体には別に興味がないんだろうと思うのです。


あるいは、「選択」と「強要」の混同。これはよく転倒した議論が見られるところです。反対派によくあるのは「賛成派は選択の自由を強制しようとしている」という主張。賛成派からは死ぬほど奇妙に見えますが、たぶん本気です。姓について「自由のある社会」と「自由のない社会」のうち、賛成派は「自由のある社会」を求めています。しかし反対派は「自由のない社会」を求めているわけです。「自由のある社会」が嫌なのです。反対派からすれば、自分は自由のない社会に住みたいのに、賛成派はそれを許さない、それは強制だ、ということになる。


自由のない社会を変えないでほしい、というのはどういうことでしょうか。僕は特に婚姻制度、いや「結婚」といったほうが適切でしょうか、結婚というものに対する感情というか気持ちが、この話が捻れやすいポイントのような気がしています。多くの人が、それぞれ内容は違うでしょうが、結婚というものについてイメージをもっています。ファンタジーといってもいい。それは例えば「部屋とYシャツと私」的世界だったりするかもしれません。で、そのなかには、「夫の名前に変わることを喜ぶ新妻」なんかもあったりする。こういうシチュエーションに象徴されるような、結婚に対する人々の考え、親戚や周囲の人との関係、それを支える法的制度、(疑似)伝統文化、そういった様々なものが全体として「あるべき婚姻制度のかたち」という、一つのファンタジーを形成しているのだと思います。そのファンタジーを壊してほしくないのではないでしょうか。みんなが、これまでと同じように、同じファンタジーを共有していてほしい。そしてもしそういったファンタジーの共有がなければ、社会的紐帯の全体が損なわれる、と恐れているのではないでしょうか。


もしそうだとすれば、やはり「社会にいろいろな違った人たちが共存していても、何も怖がることはないよ」ということを納得してもらうしかないのではないか、という気がしてきています。まあ、そうまでして「感情的」にも納得してもらう必要がどれだけあるか、というのは一方であるのですが。