憲法を「選びなおす」とはどのような事態なんでしょうか

宮崎哲弥とかがよく言ってることですが、「現行の憲法は押しつけられたものである。9条を存続させるにせよ改正するにせよ、日本人がこれを主体的に選びなおすべきだ」という意見がありますよね。9条の改正に反対であっても「押し付け」を脱して日本人が主体的に9条をもう一度選ぶことが必要だ、という。護憲派であっても「自主的に選択すること」に反対するのはおかしい、という論です。(ところで、憲法はいつも「押し付け」と言われますが、自衛隊についてはあまりそういう言い方がされないな、とよく思うのですが、それはさておき。)


で、その「主体的に選びなおす」というのは、一体どのような事態なのか、と思うんです。国民投票をする、ということなんでしょうか。たぶんそうでしょう。それ以外に何も思いつかん。

憲法改正論議 - Wikipedia
この記事の後半、「憲法改正に関連した動き」に、戦後憲法を何度も改正しようという動きがあり、その度に達成できなかったという経緯が記されています (細かい事実関係は自分では調べてませんが)。すなわち少なくとも、これまで何度も「改憲を選ばない」という選択は行なわれてきたわけです。うーん、でもこれは「主体的に選択した」ことにはならない、と言われるのでしょうね、きっと。


でも思うに、護憲派であれば「改憲させない」というのが最も基本的な方針になるはずですよね。つまり「改憲を前提とした国民投票が行われるような事態」に至らないようにするのが、まず護憲派のやるべきこととなります。その意味では、護憲派がこれまでずっと勝利してきた、とも言えます。こうした経緯をスルーして「護憲派であっても国民投票に反対するのはおかしい」とか「日本人は一度もあの憲法を選んだことがない」というのは、ちょっと違うのではないかと。なぜなら国民投票は、多数の人が「改憲」を選択してはじめて行なわれるはずのものです。そういう状況まで譲歩せよ、そこから護憲を言え、というのは、全然フェアじゃない。


したがって「主体的に選びなおすべし」論は、僕の感覚としては、内容に関して一見すると中立のように見えながら、しかしその実質は大幅に「改憲寄り」と見えます。


うーん、どうだろう。この議論どっかおかしいかな?