すべて国民は


健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する、というのが憲法25条の1項なわけですが。

坂本哲志総務政務官は5日、総務省の仕事始め式のあいさつで、仕事と住まいを失った派遣労働者らを支援するために東京・日比谷公園に開設されていた「年越し派遣村」に触れ、「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのかという気もした」と述べた。そのうえで「(集まった人が)講堂を開けろ、もっといろんな人が出てこいと(言っていたのは)、学生紛争の時の戦術、戦略が垣間見えるような気がした」と続けた。

もちろん、派遣村に集った人達には多くの「本当にまじめに働こうとしている人たち」がいることでしょう。そういう人達が「働くことができない」状況に陥っていることに対して、当然政治には責任があります。それを棚にあげたこのような発言は、無責任の極みというほかありません。


その上で思うのは、25条は「すべて国民は」と言っているのであり、「本当にまじめに働こうとしている国民は」などとは言っていない、ということです。「すべて」とは、本当に「すべて」であるはずです。うまく正規雇用につくことができず、住居も職も失ってしまった人々の中には、「本当にまじめに」やってた人達もいるでしょうが、そうでない人もいるでしょう。しかし「すべて」の人々に、人間らしく生きる権利がある。そう言わねばなりません。先の見通しが甘かった人も、愚かものも、堪え性がなくすぐに仕事をやめてしまう人も、身体の弱い人も、仕事を選り好みする人も、怠け者も、努力の足りない人も、勇気がない人も、人生設計など何も考えていない人も、マナーの悪い人も、他力本願の人も、あらゆる人が人間らしく生きていけるようにするべきです。本当にすべての人が「人間らしく生きる」ことができる社会を作るのが政治の役割でなかったとしたら、一体何のために政治があるのか。