他人の怒りを理解する


というのは、やはり結構難しいですね。なんてことを柳沢大臣「女性は子どもを産む機械(という言い方はしてないが)」発言をめぐるあれこれを読んだりしながら思いました。

けどこれは大事なことなんですよね…。自分がムカつかないからといって、怒っている人達がおかしいとか間違ってるとかばかり言っててもしょうがないというか、やはりそこにはそれなりの背景があるわけでしょうし*1


まぁあの発言が「無用だった」「デリカシーがなかった」とは思います。しかし、ではあれが彼個人の本音であるとまで言えるかというのはやはりわからんのですよ。それにむしろ、ああいう発言が出てきたときに、こうして怒りが沸騰してしまう社会的背景や現政権の政策そのもののほうが本来俎上に上げられるべきなんでしょうしね。柳沢個人の資質だとか辞任させるとかいう話にしかならないようでは、そういう本来問われるべき怒りの背景を矮小化してしまうんではないの?という気はします。

でも、あれに怒る人達の背景を理解する努力も自分には必要だ、とも思ってます。それは何も自分も彼等と同じだけ怒りを感じなければならないとかいうことではなくて、ちゃんと想像力が働くようにしていく、ということです。


それとはちょっと別の話になるんですが、もう一つ。

出産を国政の手段としているようで許せない、という意見がわりと散見されるんですが、これもちょっと注意が必要なんじゃないかと思いました。確かに「他者を手段としてのみならず、同時に目的としても扱え」ってのは立派なことだと思いますが、少子化が解決を要する社会問題であると考える以上、どうやって出生率を上げるかというのは当然の思考のはずです。つまり「どうやって産んでもらうか」を考えるのは当たり前です*2。もちろんここで「女性に頑張ってもらう」などと女性にのみ責任を押しつけるのはおかしいと言えるでしょう。が、国民の将来のために少子化を解決する、そのために出生率を上げる、というロジックであれば、具体的な政策がどのようなものであれ、出産を手段として扱わざるを得ないのではないでしょうか。

たとえば国際競争力を上げるために教育水準を上げる、という政策があったときに「教育は産業政策のための手段ではない」などといちいち言ってたら、政策なんて作れなくなってしまうのではないかなぁ。「手段」と見ることを問題にするべきケースっていうのは、この例で言えば教育の国際競争力の向上以外の価値が犠牲になるような政策である場合ですよね。出産についても、少子化対策以外の価値が犠牲にされるというような政策であれば「手段としてのみ扱うな」という批判も力を持つでしょうけど。うーん、別にそんなことは無いんじゃないかなぁ、とこれまた違和感がある話なんですよね…。

*1:もちろん問題の種類によりますが。馬鹿げた考えに基づく馬鹿げた怒りというものもあると思うので。

*2:つまり、それが駄目なら出生率を上げないでもなんとかする、という解決策しか残されない。移民の受け入れを進めるとか。