人権概念は自然には身につかない


http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070609/1181371044
で、徳育より人権を教育する必要が、と言いましたが、実際に人権という考え方は学習を通じてでなければ得られないんだろうと思っています。「徳育」という言葉で語られる「思いやり」だとか「自己犠牲」とかいうものは、人間らしい生活を通じて、おそらく自然に獲得されていくものでもあるのでしょう(なぜか対象が国家にまで拡大されるような「自己犠牲」は別として)。少なくとも、進化心理学の本とか読むと、そういう意味での道徳性の「種」みたいなものは、ある程度はビルトインされているように見えます。これは例えば言葉を考えたときに、具体的な言語は学習されるとしても、その基盤となる能力そのものはビルトインされてる、というのに似ているかもしれません。


しかし人権という考え方は、いろいろな道徳文化に共通するというようなものではなくて、比較的新しい概念です。特定の歴史的条件の中で発展してきたということは、放っておいて生まれてくるようなものではないということです。そいういうものは、学習を通じて獲得されるしかない。もちろん学校だけが学習の場ではないと思いますが、通常の社会生活の中で充分に学習されるだろうかと考えると、ちょっと無理なんじゃないかなと。だから、例えば「思いやりというものを教える」よりも、その思いやりを「どれだけ普遍的なものへと拡張しうるか」を教えることのほうが必要だと思うわけです。


そしてその時にはおそらく、「こんな連中は人間じゃない」と感じてしまうような相手をどう考えるかという、「自然な感情」としての道徳では対処できない問題を克服しなければならないでしょう。

このような種類の優しくて、寛容で、裕福で、安泰で、他人を尊重する学生を世界の至るところで生み出すことこそ、啓蒙主義ユートピアを達成するためにまさに必要なことであり、必要なすべてなのです。私たちがこのよな若者を育てれば育てるほど、私たちの人権文化はより強く、グローバルになるでしょう。しかし、そういう学生たちが許容しがたいと考える偏狭な人々に対して「非合理的」というレッテルを張るよう奨励するのはいい考えではありません。
…(中略)…悪しき人たちの問題は、彼らが私たちほど幸運な環境で育ってきたわけではないという点にあります。サルマン・ラシュディを探しだして殺そうとしている連中はすべて非合理的だと見るのではなく、剥奪された人たちと見るべきなのです。


リチャード・ローティ「人権、理性、感情」(ジョン・ロールズ他『人権について』みすず書房、1998、asin:4622036673

先日ローティが亡くなって、そういえば以前読んだときに他の著作も読もうかと思ってそのままだったな、と思ってその時読んだものを読み返してみたのでした。